田中富広会長のメッセージ
神とサタンが奪い合う日本の生きる道
リード文
七月十三日、東京都の会場で「神日本宗教法人認証の地 北東京エリア特別礼拝」が行われました。メッセージに立った田中富広会長は、真のお母様が繰り返して強調される摂理のポイントについて説明し、「精誠の花をたくさん咲かせ、この地から日本を刺激し、真のお母様を刺激できるうねりを生み出していけるよう願います」と参加者に語りかけました。(文責・編集部)
本文
神様の真の愛の世界を
見せてくださる真のお母様
皆さん、こんにちは。
私は昨日、最終便で韓国から帰ってきました。真のお母様から昼食に呼ばれ、数人の方とご一緒させていただきました。その場に用意された料理は、お母様が考案されたレシピで作られたということでした。
四十年前、真のお父様は米国・ボストンの沖で四十日間、幹部たちとツナ・フィッシングに投入されました。その期間、真のお母様はずっと厨房に立たれたといいます。寒い海の上で体を冷やされたお父様ご一行が、体を温め、体力を回復させるために考えられたのが、今回、頂いた料理でした。
ナツメや高麗人参など、さまざまな食材が入っていて、サムゲタンのようですが、違うのです。とてもおいしくて体はポカポカし、〝これは健康に良いに違いない〟と思いました。
真のお母様は、「田中富広が来る」ということで、三日前から天正宮博物館の料理長にレシピを伝え、私を迎えてくださいました。なぜ、このような話をするのでしょうか? 私たちの目には、神様の真の愛そのものは見えません。しかし必ず、ある形を伴って現れるのです。私はそのことを、皆さんに伝えたいのです。
私は日本家庭連合会長に就任してから、真のお母様にお目にかかる機会がとても増えました。そして毎回、食事で出される料理が違うのです。コーヒーに添えられるお菓子も、食べたことがないものが多いです。
真のお母様は私に、「今、目の前に◯◯が出されたでしょう。それは誰々が持ってきてくれたものだよ」「これは、どこどこで誰々と会ったときに、作って持ってきてくれたものだよ」などと説明してくださいます。事前に、「田中富広が来たらこれを出すように」と給仕係に指示し、全てを把握しているため、一つ一つ滞りなく説明されるのです。お母様はそのようにして、目に見えない神様の真の愛の世界を、私に見せてくださいます。
真のお母様は生涯をかけて、神様を父母として生きてこられました。天の父母様(神様)との間で培ってこられた愛の世界を、単なる言葉ではなく、ある形にして、私たちに見えるようにしてくださっているのです。改めて、深く感謝いたします。
日本を神が取るかサタンが取るか
深刻な奪い合いがなされてきた
北東京エリア、特にこの足立区にとって、きょうは、とても重要な一日です。この一日に、私たちの視点をどこに置くべきか、天の摂理や自らの人生をどのように見詰めるべきなのかを、原点に立ち返って整理してみようと思います。
神様は親であり、失ったわが子を取り戻すために、今もなお、復帰歴史は続いています。六千年の歴史を費やしても、わが子のことを諦められない天の父母がいらっしゃるのです。これが、私たちの人生観であり、摂理観であり、歴史観です。この大前提が崩れたとき、私たちの信仰は必ず人間的になっていきます。
人間始祖アダムとエバが堕落しなければ、彼らは人類の真の父母になっていました。しかし、堕落して神の子女の立場を失ったために、神様もまた、父母の位置を失われたのです。その子女と父母の位置を取り戻すために、長い歴史が費やされてきました。
なぜ、このように長引くのか。それは言うまでもありません。サタンがいるからです。『原理講論』では、神とサタンの攻防や善神と悪神の業について説明されています。私たちは今も、サタンが人類歴史を支配しているという視点で物事を見る必要があります。
一九五八年、韓国から日本に崔奉春・宣教師(日本名・西川勝)が送られ、神様のみ言の種、愛の種がまかれました。真の父母様は、なぜ、西川先生を日本に送られたのでしょうか? 神様の復帰摂理のためです。
西川先生は密航船に乗って入国しました。当時、日本と韓国は国交関係が正常化されておらず、そうせざるをえなかったのです。西川先生には常に強制送還の可能性がありました。
一九六四年六月二日、西川先生は警察に連行され、同四日に入国管理局に移送されました。そして、連行された日から四十三日後の七月十五日、統一教会(家庭連合)が宗教法人として認証され、その翌日、正式に宗教団体として出発したのです。西川先生は七月十七日に解放されています。
このように、日本における神の摂理は、正に、日本を神が取るかサタンが取るかという深刻な奪い合いがなされる中で進められてきました。
まかれた愛の種は、ここ北東京エリアの足立から日本全国に広がり、たくさんの霊的生命が天に連結されるようになりました。私たちは、その愛の種が芽生えて花咲いた一人一人です。
しかし、その根っこが神様の摂理とつながっていなければ、浮き草のようになります。私たちは、個人、家庭、教会、国が、神様の摂理の中にあると認識したうえで、あらゆることがらに臨まなければなりません。このような信仰的視点があってこそ、この教団には意味があり、この集いにも意味があります。「良き人格をつくり、良き家庭をつくる」。私たちの掲げるテーマは、これだけではないのです。
私たちは、神様の摂理全体を俯瞰することが願われています。神様は人類を取り戻すために救援摂理を進めていらっしゃいます。しかし、それを妨げようとする敵も、いまだにいるのです。私たちはこの霊的闘いの中で地上摂理を担っていることをよく理解すべきなのです。
親なる神を知ることによって、
人間は解放され、救われる
なぜ、急にこんな話をしていると思いますか? 昨日、真のお母様は、二世の時代が来ているということを繰り返して強調されました。この会場でたくさんの二世たちを目にして、もともと話そうと思っていた内容を置いてでも、お母様が言われたことを伝えなければならないと思わされました。
真のお母様は、二世・三世圏時代の到来とともに、もし共産主義が日本を握ったら、国が消えてしまうということを本気で自覚するように念を押されました。お母様はこのような内容を語られました。
〝共産主義がなぜ問題か。神を否定するからです。それ以外に理由はありません。神を否定するということは、親を否定することであり、親を否定すれば、子女の位置も失ってしまいます。
神を否定すれば、人間的になるしかありません。共産主義の最大の問題は、人間中心主義になったことです。もう一度、私たちが天の父母様と一つにならなければ、本来の自分を取り戻す道が失われてしまいます〟
共産主義を信奉する人々は、絶対に「生かされている」とは言いません。彼らは、「自分の人生」と強調するでしょう。「生かされている」と言えば、〝生かしているもの〟の存在を認めなくてはならなくなるからです。
皆さんは、自分の意思で内臓器官をコントロールできますか? 〝きょうは心臓が疲れているから休ませてあげよう〟なんて無理でしょう。酸素を吸って二酸化炭素を吐く。呼吸は無意識にしているでしょう。一、二分は止めることができるかもしれませんが、二十四時間、吸って、吐いてと、意識して行っていたら、気がおかしくなってしまいます。
さまざまな点で〝生かされた〟肉体があり、それを用いて、私たちは、ために生きる実践をし、愛を育みながら人生を歩んでいます。ですから、まずは、生かされていることを謙虚に認めるべきなのです。そして、生かしている方に、「私たちは何のために生きているのですか?」と尋ねてみなければならないでしょう。
アインシュタインに、「もし神様に一つだけ質問できるとしたら、どんなことを聞きますか?」と尋ねた人がいるそうです。アインシュタインは、「どうやって宇宙をつくったのか聞いてみたい」と答えたようです。アインシュタインらしいですね。ところが、一つしか聞けないのであれば訂正するということで、「なぜ宇宙をつくったのか知りたい」と言ったそうです。
〝何のために生きるのか〟を問うのならば、〝なぜつくられたのか〟から問わなければならないでしょう。
親なる神様は、心から喜びの対象を求め、子女を創造されました。その父母の心情に至らなければ、本当の意味で、私たちの人生の価値は分かりません。父母なくして、我々子女の生きる価値は見いだせないと言ってもよいのかもしれません。
私は真のお母様と向き合うとき、われ知らず問うことがあります。〝この方は本当に私の親だろうか〟と。お母様が親であることを疑っているのではなく、私が子女になれているかどうかを疑ってしまうのです。本当に申し訳ないことです。
子女として迎えているのに、父母と思ってもらえない。これが父母の一番の苦悩でしょう。そして、目の前に親がいるのに、親だと感じない、親だと理解できない。それが子女の一番の不孝であるというのです。
真のお母様は二世たちに、「二世、三世を全て取り戻しなさい」とおっしゃいます。「取り戻す」という意味は、「親であることを教えてあげる」という意味です。親がいると知ることによって、人間は根本的に解放され、救われるからです。
摂理を担って立つ者に願われる
姿勢、生き方
救国救世のため、日本に命懸けで密航船に乗ってきた宣教師によって、天のみ言は伝えられました。それを不法行為だと批判する人がいるかもしれません。皆さんは、どのような思いで、その事実と向き合いますか?
そして今、家庭連合は民法上の不法行為、あるいは、反対派が八〇年代から広めてきた、いわゆる〝霊感商法〟によって世の中から批判されています。二世、三世の皆さんには、全く身に覚えのないものが降りかかってきています。これをどのように受け止めていきますか?
この会場には、献金に関して意見がぶつかり、中には両親がけんかをしていた記憶がある人もいるかもしれません。〝なぜ、そうしてまで献金するのだろう〟と疑問に思い続けた人もいるのではないでしょうか。インターネットなどを見れば、〝買ってほしいものを買ってもらえなかった〟と恨む、教会から距離を置いている二世の声も見られます。そのようなことは、家庭連合に限らず、他の宗教団体にもあるのかもしれません。
家庭連合には、海外宣教に行った先輩家庭がたくさんいます。ずっと親と離れて幼少期を過ごした二世圏にとってみれば、〝やっぱりやりすぎだろう。おかしいだろう。家庭の大切さを教える教会が、どうしてそこまでするんだ〟と声を上げたくなる人もいるでしょう。
二世、三世の皆さんは、愛する者たちを置いてでも世界に出ていき、天の父母様の願いに応えて宣教した生き方を否定しますか?
そこには犠牲もあったでしょう。愛を求めても愛を与えてくれる親がいない、そんな寂しさを抱えて生きてきた二世たちがいることを知っています。
しかし、天のみ旨に身を捧げて、天の摂理国家、母の国・日本を立ててきた先輩たちの業績は、百年後、二百年後も輝き続けます。未来永劫、誇れるものなのです。〝あの家庭を見てみろ。子供たちが寂しい、貧しい生活をしていたじゃないか。どこに真の家庭があるんだ〟などと揶揄し、天の前に積み上げた偉大な業績を地に葬り去ることは許されるべきではありません。
神とサタンが、この日本を取り合う壮絶な闘いの中で、天の心情と事情、願いに身を委ね切った諸先輩の伝統があったからこそ、私たちの未来は見えるようになりました。そのことを堂々と誇っていかなくてはなりません。それが摂理を担って立つ者の姿勢です。
アベルとして立つ者の不足さを
受け止めて救援摂理は進められる
今日まで家庭連合は、地のおきて、世俗の価値観によって長年攻撃されてきました。それを最大限に利用しているのは共産主義勢力であり、その背後には悪神の業があるのでしょう。
そこに向き合うのも、私たちアベル圏の責任です。神様は、私たちの想像を超える摂理をなさいます。
例えば、ヤコブは、兄エサウから長子権を復帰しましたが、どうやって復帰しましたか? 母リベカの知恵を借りて奪いました。『原理講論』には「母子協助」と説明されています。では、神のみ旨のためなら、だましても、うそをついてもよいのでしょうか? 真のお父様は、「うそは絶対にだめだ」とおっしゃっています。
この矛盾を解決するのが、二十一年間のハラン苦役です。それは本来、あってはならないことでした。長子権復帰は、家庭で愛による自然屈伏によってなされなければならなかったのです。しかし、失敗したため、あのようなやり方で復帰することになりました。神様は、ハラン苦役を摂理のパッケージに組み入れてヤコブに背負わせ、み旨を進めざるをえなかったのです。
モーセの荒野路程も、あるべきではありませんでした。では、なぜ起きたのでしょうか? モーセが義憤に燃えてエジプト人を殺してしまったからです。真のお父様は、〝モーセはエジプト人を殺してはいけなかった。エジプトで王になり、神の国をつくるべきであった〟とも語られました。
神様は、モーセの過失によって生じた荒野路程も含めて、摂理を進めざるをえませんでした。イスラエル民族は四十年間、荒野でさまよい、大部分の一世たちは最後、求め続けたカナンの地に入ることができませんでした。
このように、地の法、地の視点では腑に落ちないように見えることがらも、神様は全てを受け止めて救援摂理に組み入れ、整理していかれました。
私は韓国で二人の先輩家庭の婦人の証しを聞いたことがあります。
真のお父様は一九七〇年の暮れに、韓国の七七七家庭の先輩たちに国内で三年間の開拓伝道を行うように願われました。そのとき、任地に子供を連れていくことはできませんでした。
証しの一人の婦人は、子供を預かってくれる親や親族がいなかったため、孤児院の前に子供を置いて任地に向かいました。ところが、開拓伝道から戻ると、孤児院は火事で消失していたのです。子供の行方も分かりませんでした。捜し続けてようやく出会ったのが、子供が中学生になった頃だったといいます。とても、親だとは思ってもらえませんでした。
しかし、子供が大学に入って統一原理を聞き、真の父母様を中心とした摂理を知ったとき、なぜ、お父さんとお母さんが自分を孤児院の前に置き去ったのかを理解し、心から感謝したのです。この子供は祝福結婚を受けました。
もう一人の婦人は、子供を誰かに託すことができず、開拓伝道を断念しました。家族は仲良く暮らし、子供が高校生になったとき、統一原理と真の父母様の路程を学びました。そして、〝あのとき、どうして私を置いて開拓伝道に行かなかったんだ!〟と親を責めたというのです。婦人は、それが人生で最も苦しかったと証ししていました。
私たちは、〝祝福の子女は神が守る〟と信じて歩んできた世代です。しかし、現実においては、さまざまに足りない点があったがゆえに、子女たちの中に、〝愛を求めても、そこに親はいなかった〟と、苦悩を抱えてきた人がいるのも事実です。
天の父母様は、私たちアベル側に立った者の不足さにより、あってはならない出来事が起きたとしても、それを含めて、長い年月をかけて摂理を経綸されます。私たちは神のみ旨を信じて、諦めずに歩んでいくしかありません。
日本の生きる道は、真の父母と
一つになることにかかっている
神とサタンのせめぎ合いのとき、私たちが決して忘れてはならないのが、〝神様は一人も残さず、わが子を取り戻そうとされている。そこに変わらない親の愛がある〟ということです。神様は、全人類を取り戻すまで救援摂理を続けられます。だからこそ、私たちもそこに身を投じて責任分担に取り組むのです。二代、三代、四代と代を重ねても歩みを止めてはなりません。
なぜでしょうか? 一人でも神に背を向けている子女がいる限り、親の心は解放されず、平安は訪れないからです。二世、三世の皆さん、救援摂理が続く理由を、ぜひ理解してください。真のお母様が、そのような摂理観から物事を捉え、未来を見詰めていらっしゃることを、ぜひ理解してください。
今後、天愛祝承子である信出様と信興様を中心として、新しい時代のうねりが訪れます。だからといって、蕩減が完全になくなるわけではありません。昨日、真のお母様は、私に蕩減の話を繰り返してされました。そして、このようなことも語られました。
〝一九六〇年に聖婚したとき、近くに住むお坊さんが訪ねてきました。そして、「統一教会の未来を預言する」と言ったのです。そのお坊さんの預言には、「日本は真の父母と一つにならなければ、必ず沈没する」とありました。
今、日本に南海トラフ地震が起きれば、三十万人が亡くなると言われています。いつ起きてもおかしくないそうです。それを超えるには天運に乗るしかありません。天運はどこから来るか。天の摂理の中心地です。それは天の父母様と真の父母でしょう。日本の生きる道は、真の父母といかに一つになるかにかかっています〟
真のお母様の思考回路や、ごらんになっている世界は、地をふらふらと歩き回る私たちとは違います。私たちは、どうしても地のルールに引きずられてしまいます。係争中の裁判にいかに勝つか。それは、地のルールが求められる最たるものでしょう。
真のお母様は、地とは別の次元で物事をごらんになります。真のお父様と同じスケールで、天の膨大な摂理について間髪を入れずに語られるのです。私の心に最も響いた言葉は、〝この国の主人は真の父母であると、はっきり知りなさい!〟です。神様の摂理から見れば、そうなのです。人類の真の父母はすでに立たれました。
真のお母様は、このようにも強調されました。
〝私たちは、永生を信じています。そこは愛の世界です。愛の世界は一人では行けません。絶対にパートナーが必要です。夫婦になるためには祝福を受けるしかありません。
もちろん霊界に行ってからも受けることは可能です。しかし、今は地上に真の父母がいます。日本の全国民、全人類が祝福を受けるように導いてあげなさい。これが日本の生きる道です〟
日本は、母の国として選ばれた唯一の国です。父の国・韓国と日本は一つにならなければなりません。そして、地球規模で救いの道を開こうとされる真のお母様の視点と私たちの視点は、一致していなければならないのです。
信出様と信興様が天愛祝承子として世界を巡回し、真の愛を着地させて、七月二十日に韓国で「天地人真の父母様の勝利圏相続のための天愛祝承子 世界巡回 感謝報告大会」が挙行されます。真のお母様の中では、今後のプランがはっきりしています。二〇二七年には、摂理の大転換が宣布されます。
そのときの主役は二世、三世です。彼らが天の父母様と共に新しい次元の天一国創建に向かってスタートしていきます。まだ成長途上であり、蕩減も残っています。それでも、新しい次元でアベル・カインが躍動し始めます。その環境を整えるために、二〇二七年までの約一年半、真のお母様は我々と共に全力を投入していかれるのです。
私たちが捧げた精誠を使う
権利は神様にある
そのような天のスパンを心に留め、未来に向かって精誠を尽くしていきましょう。精誠は、たとえ捧げても、私のために実るとは限りません。積み上げた精誠が、私たちの家庭、私たちの教団のために使われるとは限らないのです。精誠を使う権利は、私たちにはありません。精誠はひたすら〝神様の通帳〟に貯めるだけなのです。
アブラハムは、象徴献祭で鳩を裂かなかったがゆえに、イサクを献祭することになりました。百歳になってできたわが子を捧げるのです。それがどれほど深刻なことでしょう。しかし、本来なら、象徴献祭の失敗のゆえに、摂理を担う立場から外されるはずでした。アブラハムはなぜ、イサク献祭をすることができたのでしょうか?
『原理講論』に三項目の理由が書いてあります。その三つ目に挙げられたのが、アブラハムから二千年前にアベルが天に供え物を捧げた精誠と、四百年前にノアが百二十年間、箱舟を造って天の前に捧げた精誠です。二千年前と四百年前に積み上げられた精誠を束ねて行使し、許されたのがイサク献祭です。精誠を使う権利は、神様にあることがよく分かります。
ただひたすら精誠を尽くし、神様がいつでも思う存分に使えるように、〝神様の通帳〟に貯めていきましょう。神様が使うべき時に、使うべき人に使っていただければいいではないですか。私や、私の家庭、私たちの教団に返ってきたらラッキーぐらいに思っていましょう。精誠は天に捧げるものであり、捧げた分、見返りがあるはずだという原理観はありません。
足立の地は、最初に日本に大きな祝福を頂き、宗教法人として家庭連合がスタートした地です。真の父母様も訪ねてこられたことがあります。しかも、出発の地は「花畑」という地名だと聞きました。精誠の花をたくさん咲かせ、この地から日本を刺激し、真のお母様を刺激できるうねりを生み出していけるよう願います。
未来を担う二世・三世圏として、プレッシャーや試練も楽しみとしながら、肥料にして成長していきましょう。
コメント