真の父母様がまかれた愛の種を花咲かそう

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五月三十一日、下関家庭教会(山口エリア)で「日臨節八十四周年記念大会」が行われ、オンライン配信と合わせて、食口・祝福家庭約五百人が参加しました。メッセージに立った田中富広会長は、怨讐を愛する道を行かれた真の父母様を証しし、「我々自身が、愛の伝統をしっかり立てることを決意して出発する一日にしていきましょう」と参加者に呼びかけました。(文責・編集部)

山口エリアの皆さん、こんにちは。
青年によるエンターテインメントは、バンド、ダンス、聖歌隊のどれもが熱心に練習したことがうかがえる、とても素晴らしい公演でした。
信教二世遊説隊「N.A.B.I」のメンバーの証しも心に響きました。私たちの教団はなぜ、こんなにも迫害されるのでしょうか? 真のお父様が、「もし試練がなかったら、先生が試練を与える」とおっしゃったように、信仰は試練を克服しながら培われていくのです。
私たちは本気で地上天国をつくろうとしています。それゆえ、世俗的価値観とぶつかり、あらゆる分野で葛藤が生じます。天の価値観が地に向かえば向かうほど、激しくぶつかるのです。私たちは闘いから逃れられない宿命なので、試練を楽しむしかありません。

神様は「怨讐」という文字を
この地に残すことはできない

日臨節八十四周年を迎えました。この日が何を記念しているのか、改めて皆さんと考えてみたいと思います。
一九四一年四月一日、真のお父様は下関から日本の地に一歩を踏み出されました。六千年間、神様が尋ね求めた人類の真の父母となるべき再臨のメシヤが、この地に足を踏み入れたのです。
真のお父様の入国が天の摂理だとすれば、そこには背景があるはずです。私たちは、その背景を正しく理解する必要があります。神様は、「怨讐」という文字をこの地に残すことはできません。神様の辞書には、怨讐という文字がないのです。その一言がある限り、天国は永遠に訪れないとも言えます。ある意味、怨讐という文字をいかに消していくかが、神様の復帰摂理を理解する〝要〟となります。神様は地上から怨讐をなくすために、愛する息子を日本に送られました。そのような背景を理解したうえで、この記念の一日を迎えるとともに、崑崙丸の撃沈事件(1943年10月5日)にも思いをはせていただけたらと願います。
真のお父様のみ言です。
「獄中の受難の中で、むちを受けて血を吐く拷問を受けながらも、先生は、むち打つ怨讐を恨みませんでした。真の神様は、御自身が最も愛する息子を犠牲にしても怨讐を救いたいと思われ、それだけでなく、最も貴い記念品までもその怨讐に与える方です。これが正に神様の愛です。むち打つ怨讐のために、涙を流して祈らなければならないのが神様の道理です」(天一国経典『天聖経』365ページ)
天にとって韓民族は、人類の真の父母を立てるために準備された選民です。残念ながら、韓民族に対する日本民族のふるまいの中には、歴史的怨讐として、今なお、尾を引いていることがあります。さらに、人類のメシヤである真の父母様を牢獄に追いやりました。この事実は、人類歴史に永遠に刻まれることでしょう。しかし、天の摂理上、日本に怨讐という文字をつけたままにすることはできません。そのため、真のお父様は日本に入国し、天の父母様(神様)と同じように怨讐を愛する道を行かれたのです。
「先生は、神様を愛し、世界を愛し、人類を愛しました。解放直後に、先生を囚人として銃殺しようとした怨讐までも愛しました。彼の子女が飢えている時、背広から下着まですべて売って彼にあげたあと、何もない中で二週間生活したこともあります。その時は、着るものがなくて外に出ることができませんでした。それは、ある手段としてそのようにしたのではなく、心からの思いでそのようにしたのです」(同368ページ)
真のお母様も真のお父様と同じように、神様の解放のために怨讐を愛する生涯を送ってこられました。
真のお母様は、私を日本の代表として対されます。大きな声で「田中!」と呼び、日韓の歴史について語り始められると、最低三十分は続きます。私は覚悟を固め、お母様の一言一言に耳を傾けていくのですが、決して〝憎き日本人に向かって語る〟という雰囲気は感じられません。
今、私たちは、真のお母様の心情圏や価値観から物事を見詰められるかどうかが問われています。日本人として歴史問題を見るのではなく、お母様と同じように天の父母様の視点から見なければ、お母様の一言がゆがんで着地してしまいます。〝まあ、お母様は韓国人だし、私は日本人だから、言われて当然ですよね〟というレベルで歴史問題を受け止めていたら、絶対に天の摂理を担うことはできません。
真のお父様が聖和された直後、来日された真のお母様が日本人に向けて語られたメッセージです。
「静かな海は、表面的には平穏に見えます。しかし、深い所には、とうとうと流れる黒潮のような大洋を動かす巨大な流れがあります。また海は、一度荒波が起きれば、あらゆるものを呑み込んでしまうこともあります。人々は、海の深い所を流れる海流を見ることはできません。天の摂理はもちろん、私の生涯もこのように展開してきました。台風のように押し寄せる摂理の中心で、私だけが知る、言葉にできない事情が多くあります。私は、その流れに巻き込まれることなく乗り越えて勝利し、蕩減復帰摂理歴史を夫であられる文総裁と共に終えることができました」(『トゥデイズ・ワールド ジャパン』2014年11月号8ページ)
巨大な海流が海面からは見えないように、激流の中で歩んでいることを人々に悟られないように生きてこられた真のお母様です。お母様の心情の奥深くには、そのような闘いの痕跡が無数に刻まれているのだと思います。
真のお父様は間違いなく、怨讐を超えて愛の種をまいてくださいました。ここ下関、そして山口の地にまかれたのです。皆さんには、その種をしっかりと花咲かせる責任があります。それは良心がよく分かっていると思います。良心は天の摂理に最も近く、神の声を聞くことができるからです。

怨讐を愛する神の心情に触れない限り、怨讐を愛するのは難しい

怨讐を超える道は愛しかありません。では、怨讐を愛そうとする意欲、力はどこから来るのでしょうか。〝愛さなければならない〟という使命感からは、愛は生まれてきません。
かつて私は、年二回、七年間、山口を訪れました。韓国のキリスト教学生団を連れてきたのです。大体五十人から八十人が参加していました。
当時、私は毎日、朝から晩まで街角に立ち、日本の学生に向かって「クリスチャンですか?」と語りかけました。クリスチャンの学生はわずかで、一人も出会わない日もありました。ようやく出会えると、「韓国から学生団が来るので、一緒に迎えませんか」と誘います。「国際交流、いいですね」と、参加に前向きな学生には日韓の歴史に関するセミナーを受けてもらいます。そこで日韓の難しい歴史に触れ、その重さに耐えかねて脱落していく学生も多かったです。
毎回、日本の学生は五人くらいで、韓国の学生団と七泊八日、行動を共にしました。東京でセミナーを行い、下関まで西に移動していくのです。
その旅程で、韓国人学生が必ず連れていってほしいと願う場所がありました。広島の平和記念公園です。そこは、私がいちばん避けたい場所でした。現在、韓国人原爆犠牲者慰霊碑は公園の中にありますが、当時は公園を囲むお堀の道路脇に建てられ、自動車の排気ガスにさらされていたのです。
現地で韓国人学生たちが慰霊碑を囲むや否や、わっと泣き出しました。地べたに伏して石をたたきながら、「アイゴー」と叫び始めるのです。そして、日本人学生に向かって、「あなたは、これをどう思う!」と詰問しました。
強制連行やさまざまな事情で日本にいた韓国人が原爆の被害に遭いました。〝日本人として扱われていたはずなのに、この仕打ちは何だ!〟と怒りを覚えるのです。日本人学生は、彼らのむき出しの情を受け止め、一緒に泣くしかありませんでした。
山口に到着し、ホテルで感想を語り合っていたとき、印象深い体験をしました。引率していた韓国人教授が突然、日本語で語り始めたのです。教授は六十歳くらいで、それまでの滞在期間、一切、日本語を使っていませんでした。
「私は『敵を愛せ』と教えられたので、そのように努力してきました。どんなときも、神の名において人のために生き、人生で恥じることはないと思っていました。ただ、日本人だけは許せませんでした。神も『日本人を愛せ』とは言われないだろうと思っていたし、日本人を愛するように迫るなら、神は親ではないと考えていたのです。
しかし、共に過ごした五人の日本人学生たちを見ていて、神は彼らを愛されていると気づきました。彼らを通して、神が日本人を愛されていると知ったのです。私は今、天に対して恥ずかしさを覚えています。神は、私を根幹から変えてくださいました」
教授の話を聞きながら、怨讐を愛するというのは、怨讐を愛する神の心情に触れない限り、難しいのだと思いました。教授は、日本語で証しをするに至るまで、大きな葛藤を通過したはずです。「怨讐を愛する」と言葉では軽く言えますが、実際は簡単ではありません。その闘いをした者にしか分からない領域があるのです。

平和を実現するために必要なこと

私たちは、天の父母様の心情に立たない限り、真の平和を見いだすことはできません。真のお母様は、平和を実現するために必要なことがらを四つ挙げていらっしゃいます。
第一は、感謝することです。感謝して日々を暮らす者には、サタンは入ってこられません。どんな試練も感謝して受け止めれば、サタンはそれ以上、侵入することはできないのです。
真のお父様は、〝先生は一週間だけ神様が離れたことがある〟と語られたことがあります。備えられた天の摂理を一瞬にして引っ繰り返してしまうクリスチャンたちに対して、葛藤をどうしても抑えられず、それを抱えたまま牢獄に入ると、神の声が聞こえなくなったというのです。
真のお父様はそれでも、祈り求め続けられました。そして、二千年に及ぶキリスト教の迫害史の中で、殉教してもなお、神様を愛し続けたクリスチャンたちがいなければ、歴史から神様が消し去られたのだと悟られたのです。クリスチャンたちが神様を残してくれたからこそ、新たな摂理がスタートできたのだと、感謝の心が湧いてきたとき、「分かったか」と神の声が聞こえてきたということでした。
第二は、許すことです。親は子を裁くことはできません。親が持つ唯一の手段は許すことです。どんなにわが子が失敗をしても許し、その重荷は親が背負うのです。これが、親なる神様の伝統です。
父母の立場に立てば、相手を許す情が湧いてくると思います。まぶたを閉じれば出てくる許し難い人も、父母の心情であれば許せるはずです。
第三は、愛することです。聖書には、「だれかがあなたの右の頰を打つなら、ほかの頰をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい」(マタイ五・39〜40)とあります。この聖句を知っていれば、頰をパンッとたたかれたときに、「こっちも」と向けられるかもしれません。下着を取られたら、上着も渡せそうです。しかし、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(同44)は実践できるでしょうか?
真のお父様のみ言です。
「イエス様は、十字架を背負いながらも、なぜ『怨讐を愛しなさい』と言ったのでしょうか。サタンを屈服させるものは愛しかないからです。神様を中心とした愛は、世界を救おうとする愛です。サタン世界の愛の圏を奪ってこようというのです。神様の愛の目的は、サタン世界を屈服させることです」(天一国経典『天聖経』349ページ)
怨讐を愛するのは、その背後にいるサタンを屈伏させるためです。本気で平和世界を、地上天国をつくろうとするなら、怨讐を愛する努力を積み重ねるしかありません。
第四は、一つになることです。真のお母様は、「私と一つになりなさい」「天務院と一つになりなさい」「責任者たちは一つにならなければならない」と強調されます。心と体の統一、親子の統一、兄弟姉妹の統一……。一つになることは簡単ではありません。
私は最近、「原理」で説かれる神の「第三対象の愛」に強く引かれています。神、主体、対象、合性体によってつくられる神様の永遠の創造目的、四位基台。皆さんも、耳にたこができるくらい聞いたことがあるでしょう。
ある家庭青年のお宅を訪問したときのことです。壁に「神」と書かれた紙が貼ってありました。「これは何?」と尋ねると、「夫婦げんかをよくするので、一つになるために、『神』の前で祈り合っているんです」と答えました。〝講義の聞きすぎ!〟と思いましたが、ほほえましかったですね。
神を中心に主体が対象を愛し、対象が主体に美を返す。これは、主体から見た場合です。対象から見れば、主体に向かうのは美ではなく愛です。妻は、夫から愛を受けたので、美を返すために美しくなるのではありません。夫を愛するために美しくなるのです。各自の責任分担は、美を返すことではなく、あくまでも愛することなのです。
主体と対象が愛と美を授け受けして一つになる目的は何でしょうか? 神の第三対象をつくるためです。それができて初めて、神の第三対象の愛が下りてきます。夫婦で考えてみると、夫に向かう神の愛は第一対象の愛です。妻に向かうのは神の第二対象の愛です。夫にとっては、妻を通してしか分からない神の愛があるということです。そして、夫婦が一つになるとき、神の第三対象の愛、すなわち究極の神の愛を分かち合うことができます。
夫婦、親子、人間と万物……。主体と対象が一つになって合性体となり、究極の神の愛に出合わない限り、永遠に平和は訪れません。私たちはその愛に出合うために生きているのです。真のお母様が一つになるように訴えられる理由がここにあります。単に、従いなさい、言うとおりにしなさいという次元の話ではありません。この神の愛を、日々、追い続けるのです。あいまいにしていたら、天国がどのようなものなのか、いつまでも分かりません。

父母なる神様を万民に証すのは
選民祝福家庭の責任

歴史の大転換を告げる「天苑宮・天一聖殿入宮式」が挙行されました。これまで隠されていた天の母が、ホーリーマザー・ハンを通して明らかにされ、神様が父母として、地上の主人として治理する(治める)時代が到来しました。今後、地上のあらゆる問題は、神様が直接、整理していかれます。
それでは、父母なる神様を万民に見えるようにするには、どうすればいいでしょうか? 子女である私たちの実体を通して見せていくのです。〝私たちを見ていただければ、天の父母がどのような方か分かります〟。この究極的発言ができるようにならないと、神様が着地されているとは言えないでしょう。真のお母様は、父母の責任は終わり、新しい時代に神様を証ししていくのは、選民祝福家庭の責任であると、はっきりおっしゃっています。
信仰の道を自ら選択し、信仰的な価値観をベースに誇りを持って生きる二世たちが、「信教二世」として活動し始めました。これをいちばん嫌うのが、反対派です。しきりに、「彼らは教団にやらされている」と訴えています。反対派は、二世たちが自らの意思で信仰すると困るのです。彼らの論理が総崩れしてしまうからです。〝田中会長を含め、皆が、マインド・コントロールによる被害者だ〟というのが、彼らの主張です。
二世たちが自分の意思で行動しているからこそ、霊界が動き、社会が動きます。彼らの実体は間違いなく、日本国民の、心ある人々を動かします。

純粋に父母の心情と願いに生き、
行動を起こす者に

真のお母様は、「ピュアウォーター」という言葉をよく使われます。私は、その言葉の意味合いが、だんだんと変わってきていると感じています。
真のお母様は、二〇一三年にハワイでお孫様の二十一日修練会を開かれました。その翌年、日本からは十三人の二世が参加して、ハワイで二十一日修練会が行われました。このときのお母様のメッセージの核心が、ピュアウォーターです。「天の父母様に似て、真の愛を伝播する水になりなさい。純粋な水になりなさい。……世の中を浄化しなければなりません」(『トゥデイズ・ワールド ジャパン』2014年9月号10〜11ページ)と激励されました。
二〇二三年に日本から約六千人の二世圏が訪韓したときに、真のお母様は本当に感動されました。これほど多くのピュアウォーターが、私と一つになるために海を渡ってきてくれたと。そのときから、お母様はさらに確信を強め、ピュアウォーターという言葉を使われるようになりました。
昨年、日本の指導者たちが韓国で研修を行った際、真のお母様は、「神トップガン、二世たちが、私と一つになり、一本の針となって立っています。あなたたちは、彼らと一つになればいい」とおっしゃいました。
私は、真のお母様に「あなたたちが探してきた針です」と言わしめた霊性四十日修錬生たちに心から感謝しています。彼らが、「お母様、心配なさらないでください」「天国は私たちがつくるので、お休みになってください」と叫ぶとき、お母様は涙を流して聞いておられます。彼らが今後、信仰的な訓練を受けて、宣言どおり活躍してくれることを願うばかりです。
真のお母様は、天国は信仰だけでは築くことができないと語られます。一世は人生をかけて信仰の道を歩んできましたが、最後に求められるのは心情世界です。本気で真の父母様と向き合い、お母様は本当に私の親なのか、追い求めていかなければなりません。
来年度、家庭連合の職員になりたいと願う希望者が、今年度よりも増えました。解散命令に関する裁判が進行中にもかかわらずです。真のお母様にこのことをご報告すると、涙を流しながら喜んでいらっしゃいました。ここに天国があります。二世たちは、純粋に父母の心情と願いに生きたいと、心情を最優先し、行動しています。
私たち一世は、すぐに理性で考えてしまいがちです。「真のお母様はそのようにおっしゃっても、現実は難しい。まずは会議をしよう」などと言っていないですか? 真のお父様は、「日本人はすぐに会議をする」と指摘していらっしゃいました。
新しい時代は、父母と共にあります。私たちが父母を父母として慕い、本気で生活圏に迎え入れる闘いをしなければ、二世、三世に、この道を引き継ぐことはできません。今、二世圏、三世圏がクローズアップされていたとしても、未来は、私たち一世の選択にかかっています。私たちが確立した人生観と、それに見合った生き方を、二世、三世が相続していくからです。天に恥ずることのない選民祝福家庭になれるように頑張ってまいりましょう。
地上から怨讐をなくすため、一九四一年四月一日、日本に最愛の息子を送ってくださった天の父母様に感謝し、我々自身が、愛の伝統をしっかり立てることを決意して出発する一日にしていきましょう。

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