試練に追いやる父母の愛
真の父母様は、苦労と犠牲の道を歩んでこられました。そして、きょうこの瞬間も、真のお母様は天一国創建に向けた地上摂理の責任を担っておられます。真のお父様との約束を果たされるため、まもなく八十歳を迎えるお体にむちを打ちながら、その足をお止めになることはありません。
親は、子供の知らないところで、苦労の道を歩みます。そして、子供が同じ苦労の道を行くことは願いません。自分と同じ苦労を背負い、傷つき、犠牲となる子供の姿を見てうれしいでしょうか。苦痛以外の何ものでもありません。
親の苦労は子供のためであり、〝子供の苦労を少しでも減らすことができるなら〟と、進んで苦労と犠牲を背負い、人知れず涙と汗の道を歩むのです。
しかし、子供たちがどうしても避けることのできない、必ず行かねばならない宿命の道を背負っているとするならば、親はどうしたらよいのでしょうか。選択肢は一つです。子供たちが試練の峠を越えることができるように徹底して訓練し、勝利できるようにしてあげるしかありません。それこそ親の愛でしょう。
真の父母様も、同じです。私たちの親なのです。私たちが行かねばならない宿命の道、苦労の道、犠牲の道があるのなら、父母として、親として、できることはたった一つです。心を鬼にして子供たちを追いやり、勝利のひとときを迎えるために訓練するしかないのです。
父母の願いに生きる
私たちは、六千年間、悪の勢力圏で人類を支配し、とりこにしてきた偽りの父母を振り払い、天の父母様(神様)の懐に帰らなければなりません。そのために、自らの意思で選択し、超えなければならない試練があるのです。
イエス様は、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」(マタイ一〇・37〜38)と厳しい言葉を語られました。そこに永遠の幸福が待っているからこそ、厳しい愛の試練を通過させるのです。
そして、あえて子供に試練を与えなければならない親は、よりつらく、より孤独な中にあることも悟らなければなりません。
そんな親が、慰められ、癒やされるときとは、どんなときでしょうか?
言うまでもなく、子供たちが自分を試練に追いやる親の心情を悟り、そこに親の愛を見いだすときです。親子は、試練の中でこそ、永遠の愛の絆を結ぶことができるのです。
なぜイエス様は十字架の道を行かれたのでしょうか? カヤパの家の中庭で「おまえは神の子か」と問われたとき、否定して命を守り、さらにみ旨に邁進する道もあったのではないでしょうか? しかし、イエス様の言動には、みじんの揺らぎもありませんでした。
イエス様は、親なる神様に出会われていたのであり、揺らぐことのない親の心情の中で自らの使命の道を歩んでおられました。親の願いを果たすことだけが、イエス様の選択肢だったのです。天の前に十字架が避けられないのなら、別の選択はないのです。
父母の懐に帰ろう!
真の父母様の生涯も正に同じでした。天の父母様の心情と涙の琴線に触れられた真の父母様は、親の夢がご自分の夢となり、願いとなって、その目的のために生涯を捧げてこられたのです。
その目的とは、言うまでもなく私たち子女の復帰です。私たちが天の父母様の懐に帰るまで、天一国は、永遠に見ることができません。真の父母様は、私たちに、自らの意思でサタンと決別し、天の愛の主管圏の中に飛び込む勇気を持つことを願われました。そして、その実力を身につけさせるために、私たちを試練と苦労の道に追いやりながら、今日まで導いてこられました。
天心修行、天寶修行の道は、私たちが自分の意思で選択し、実践していくべきものです。今まで注がれた父母の愛を受け止め、子女として純粋に父母の懐に帰るために、一歩でも前進する歩みは、天の父母様と真の父母様を慰労する力となるに違いありません。
親は、純粋な気持ちを持つ子供たちから限りない喜びを得るものです。ですから、〝本当に天の父母様、真の父母様の息子、娘になった〟と思って、純粋な心で父母の前に立ちましょう。たとえそこが、苦労の最前線だとしても……。それが、父母にとっての一番の慰めだからです。
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