六月六日、東京・渋谷の松濤本部に天の父母様聖会の方相逸・神日本大陸会長を迎えて、「韓日・日韓家庭婦人ネット特別集会」が行われました。インターネットでライブ中継される中、激励のメッセージに立った方相逸・大陸会長は、訪韓でお目にかかった真のお母様のごようすを伝えたうえで、全ての食口が天寶勝利家庭になれるよう訴えました。(文責・編集部)
良心の記録を書き記すようにと
ボールペンを下さった真のお母様
皆さん、こんにちは。きょうは初めに、訪韓して真のお母様にお会いしたときのごようすと、天の摂理の進展状況についてお伝えします。
このたび、日本から九人の天一国指導者が訪韓しました。十四日間の隔離生活を経て、四月二十六日に天正宮博物館で真のお母様にお目にかかりました。お母様は、三月二十七日から五月九日までの四十四日間で、常人では考えられないハード・スケジュールをこなされ、二十にも及ぶ天宙聖婚六十一周年記念行事を行われたのですが、私たちが訪問したのは、その一つである「孝情天宙祝福祝祭」(4月25日)の翌日でした。
真のお母様は、韓国、日本、米国の指導者たちに祝福祝祭の感想を発表するように願われ、私が、代表報告祈祷を捧げることになりました。私は、天の父母様聖会の神日本大陸会長に就任してから、オンラインで何度もお母様のお姿を拝見してきました。しかし、直接お目にかかるのは一年二か月ぶり、四百四十日ぶりだったのです。そのため、さまざまな思いが込み上げてきて、涙をたくさん流しながら祈りました。そのとき、お母様も胸をお痛めになったのでしょうか。泣いておられました。
私はもともと、それほど泣く人ではありません。しかし、この頃は本当によく涙を流すのです。真の父母様の前に不足なことばかりで、あまりにも申し訳なくて自然と涙があふれてくるのです。神日本の指導者たちは皆、同じような心境ではないでしょうか。
真のお母様はその日、私たちにモンブランのボールペンを下さり、このように語られました。
「私はきょう、皆さんのために大切なプレゼントを準備しました。一か月前から準備して、あなたたちを待っていたのです。このボールペンで良心の記録を書き記しなさい。歴史に永遠に残すことのできる、後代に伝えることのできる記録を書き留めるのです。決して良心に背かず、毎日毎日、反省して記録しなさい。一日を千年のように考えて記録するのです」
ボールペンには「韓鶴子」と刻まれていました。私は過去にも日記を書いたことがありますが、三日以上続いたことがありません。しかし、真のお母様がボールペンを下さってからは、一日も途切れることなく、きょう、四十日目を迎えます。日記は義務感で書くものではありませんが、「このボールペンは、お母様が下さったものだ」と思うと、一文字を書くのにも、精誠を込めざるをえません。私は死ぬときまで、日記を書き続けようと思います。
天に捧げる孝情の根本礼式として 挙行された「天一国敬拝記念式」
四月二十七日、第五十四回「天の父母様の日」と第六十二回「真の父母の日」を記念して、「天一国敬拝記念式」が挙行されました(本誌6月号18ページ)。
真のお母様は、ご聖婚から六十一周年を迎えたことに触れ、「六千年人類歴史を蕩減する路程を、六十年で全て乗り越え、真の父母の路程として新しく出発する一年になりました」と語られました。そして、天一国時代の全ての敬拝式や記念式は、これまでと形態を変えていかなければならないとおっしゃったのです。
敬拝式については、「今後、全世界の万民が天の懐に復帰されたとき、天の父母様(神様)と天地人真の父母様に捧げる孝情の根本礼式となるために、『天一国敬拝記念式』とする」と指針が出されました。
まず、敬拝をするときの夫婦の立ち位置が変わります。これまでは、代表家庭の夫婦が、夫と妻で前後に並んでいましたが、今後は横に並びます。そして、真の父母様のみ前で代表して敬拝を行うのは、天寶勝利家庭となります。その際、夫は、天寶正装を身につけ、妻は、白かベージュのドレスを着用します。
祭壇のお供え物にも、明確な意味が込められます。栗、ナツメ、柿、梨を並べるのですが、栗は、天の父母様(天の父・天の母)と真の父母の三位が一体となったことを意味し、ナツメ(種が一つ)は絶対唯一の孝情を意味します。
柿は、天の父母様と真の父母様を通して祝福を受け、血統転換と血統安着がなされることを意味します。渋柿を甘柿にするには、必ず接ぎ木しなければならないでしょう。人類は皆、祝福を受けて、サタンの血統から神の血統に転換しなければなりませんが、柿には、そのような意味が込められています。
梨は、全人類が天の父母様に侍る天の民となり、「天の父母様のもとの天宙大家族」を成すことを意味します。
そして、聖燭の点火は、真の父母様が立てられた代表者が行うことになります。今回は、文孝進様家庭と文興進様家庭から、文姸娥様と文薫淑様が代表して行われました。
天一国敬拝記念式は、天一国安着の基台の上に、「天一国〜」と冠して挙行される最初の記念式となりました。これは、単なる宗教儀式ではなく、新しい文化の中心であり、全人類が参加して行うべきものです。
「天の父母様の日」、「真の父母の日」、真の父母様の聖婚記念日を祝賀する行事が、天暦三月十六日に併せて行われるようになり、真のお母様は、摂理の春の新しい出発にふさわしい天一国敬拝記念式を〝全人類が同参できるように〟との願いを込め、祝福してくださったのです。
私はこの期間を通して、改めて、伝統や記念式というものについて考えさせられました。皆さん、ユダヤ民族はなぜ、あのような迫害の歴史を通過しながらも、選民として世界をリードしているのでしょうか? それは、民族の伝統や記念式を守り続けているからだと思います。私たちも、統一家の伝統と記念式を徹頭徹尾、守って、二世・三世の子女たちに相続させていきましょう。
真のお母様が興奮するほど喜ばれた「天苑宮上樑式」
このたびの行事で、真のお母様が興奮するほど喜ばれたのが、四月二十七日の「天苑宮上樑(上棟)式」です(本誌6月号20ページ)。
天苑宮は、二〇一七年九月八日に、「天地鮮鶴苑」の名前で起工式が行われました。当時、真のお母様は建設現場に何度も足を運んで精誠を尽くされ、「天の父母様の夢と願い、真の父母様の愛と摂理歴史、その全てを記録する生涯展示館としなければなりません。天正宮博物館よりも美しく、大きなものにするのです」と指導されました。そして、「二〇二三年に完成したときには、世界中から人々が訪れ、天の前に感謝と栄光を捧げるようになります」と期待を寄せられたのです。
二〇一九年七月四日、真のお母様は、「天地鮮鶴苑」から「天苑宮」に名称を変更し、「天正宮博物館が至聖所だとすれば、天苑宮は聖所です。天苑宮は、天一国の中央庁の役割をするでしょう」と語られました。中央庁とは、韓国で言えば青瓦台(大統領府)です。
全人類が天苑宮で教育を受け、真の父母様の業績を深く知り、喜んで祝福を受けるようになる時が間近に迫っています。私は、真のお母様が上樑式で祝祷されたとき、お母様も、これほど興奮なさることがあるのだと驚きました。皆さんも、お母様が天に対する孝情を注がれ、着々と建設が進んでいる天苑宮に対して、大きな関心を持ってくださるようにお願いします。
真のお母様に指輪をプレゼントされた信出様と信興様の孝行心
四月二十八日の朝、真のお母様の招請で天正宮博物館に伺いました。お母様は、指導者たちの前にお姿を現されるやいなや、ご自身の手の指を私たちに示しながら、「きょうは、本当にうれしい日だ」とおっしゃいました。信出様と信興様が、友人たちとお金を出し合い、お母様に〇・五カラットのダイヤモンドの指輪をプレゼントされたというのです。
真のお母様は、幼い頃の孝進様との思い出を話してくださいました。孝進様は、「お母さん。なぜお母さんは、イヤリングやネックレスもなく、指輪も持っていないの。こんなにきれいで素敵なお母さんなのに」と残念がり、「僕が大きくなったら、きれいな指輪やネックレスを必ず買ってあげるからね」と約束なさったそうです。
実際に、孝進様はカープの世界会長を務めておられたとき、何度か真のお母様に指輪やネックレスを買ってさしあげたそうです。ところが、お母様はそれを食口たちに分け与えてしまい、残っていないのです。
真のお母様は、「こんなにうれしい日が来るとは思わなかった。孝進にもらった指輪は全て人にあげてしまったが、この指輪だけは大切に保管します」とおっしゃり、声を上げて泣かれました。すすり泣くという程度ではありませんでした。私は、そのようなお母様のお姿を初めて目にしました。
真のお母様は私たちに、「きょうは、喜びの涙を流しました。とてもうれしくて泣いているので心配しないでください。私が、うれしくて泣くことは多くないでしょう。大陸会長、天議苑苑長、あなたたちは、孫たちのようには考えたことがなかったでしょう。反省しなければなりません」と語られました。
私たちは、孝行心の足りなかった自らの姿を省みて、悔い改めの涙をたくさん流しました。
世界的指導者が参加した「シンクタンク二〇二二出帆希望前進大会」
今回の一連の行事で、対外的に最も大きな意義を持つものは何でしょうか? それは、「シンクタンク二〇二二出帆希望前進大会」です(本誌6月号24ページ)。〝家庭連合の歴史上、これほどインパクトがあるものはない〟と言えるほどの大会でした。スピーチをした参加者は、世界中の誰もが知っているような有識者ばかりでした。米国のマイク・ペンス前副大統領、マイク・ポンペオ前国務長官、マーク・エスパー前国防長官、韓国の丁世均・前国務総理(首相)、潘基文・前国連事務総長。この方々は、皆さんもよくご存じでしょう。そして驚くことに、潘基文・前事務総長が、シンクタンク二〇二二の委員長を務めるというのです。
潘基文・前事務総長は、大会の一時間前に清心平和ワールドセンターに到着し、真のお母様と深い対話をしたそうです。大会のスピーチは、映像によるものばかりでしたが、潘基文・前事務総長は、会場でお母様を前にして祝辞を述べたのです。天が役事していると思わざるをえません。
家庭連合はこれまでも、幾度となく、韓国で大会を行ってきました。その際、国会議員や道知事を招請するのがどれほど大変だったでしょうか。にもかかわらず、今回は国会議員七十人が祝電を送り、道知事はこぞって祝賀映像を送ってきました。
家庭連合に対するイメージは以前と全く違います。ですから、食口の基盤が小さいといって臆してはいけません。私たちの世界的パイプは、国家に大きなインパクトを与えているのです。真のお母様は、「あなたたちは今、何を躊躇しているのですか。早く文在寅大統領に会って談判をしてきなさい」と語り、激励してくださいました。
勝利報告大会で、私たち神日本の指導者は、真の父母様への感謝と天のみ旨成就への決意を込め、螺鈿漆器作品をお捧げしました(12ページに写真)。制作を依頼した工房は、日本の天皇家に献上品を納めている有名なところです。そこで一年かけて制作してもらいました。作品には、月と、真のご家庭を象徴する二羽の親鶴と十四羽の子鶴、そして日本を象徴する富士山が描かれています。
娘のために奮起した『ハリー・ポッター』の著者J・K・ローリング
訪韓の報告は一区切りつけ、ここからは三人の有名人を紹介しながら、私たちの生きる姿勢について考えてみたいと思います。
皆さんがご存じのように、全世界で最も多く売れた本が聖書です。しかし、世の人々は聖書の詳しい内容までは知らないのではないでしょうか。そういう意味では、〝最も読まれなかった本〟とも言えるでしょう。それでは、近年においてよく読まれた本は何でしょうか? それは、『ハリー・ポッター』シリーズです。全世界の累計発行部数は五億を超えると言われます。著者は、J・K・ローリングという英国の女性です。一九六五年七月生まれなので、現在五十五歳です。〝エリザベス女王よりもお金持ちだ〟と話題になったこともあるそうですが、慈善活動家として、子供の貧困や福祉問題の解決に熱心に取り組んでいます。
そのような活動をするのは、彼女に不遇な時代があったからです。彼女は優秀な成績で英国の大学を卒業した後、職を転々とするうちに最愛の母親を失いました。その悲しみを払拭するため、彼女は海外に出ることを決意し、ポルトガルで英語教師として勤めるようになりました。そこでジャーナリストの男性と結婚。しかし、夫の家庭内暴力などがあって、生まれて四か月にしかならない長女を連れて英国に帰ることになりました。
その後、職に就くことができず、わずかばかりの政府の補助金で暮らしていましたが、鬱病を発症し、自殺を考えるほど追い込まれていったそうです。
彼女は幼い頃から読書が大好きで、時間さえあれば本を読んでいたといいます。ある日、娘が書店で本を一冊買ってほしいと言ったそうです。しかし、貧しさゆえに買ってあげられませんでした。自らが幼少期に喜びに満たされた本を、愛する娘に買ってあげられないのです。それがどれほどつらいことでしょうか。
彼女は、娘の人生を台なしにしてはいけないと奮起し、書き溜めてあった『ハリー・ポッター』の原稿を完成させようとペンを執ります。そして、数社の出版社に出来上がった原稿を送ったのですが、返事があったのは、たった一社だけでした。児童向けにしては長編だと敬遠されたのです。
ようやく出版にこぎつけたものの、初版は五百冊でした。その後、米国の出版社が目をつけて五万部を出版。それ以降は、皆さんがご存じのように、世界中の子供から大人までが愛するベストセラーになりました。一説によると、『ハリー・ポッター』のブランド価値は百五十億ドルに及ぶといいます。日本円で一兆六千五百億円。貧困にあえぎ、生活保護を受けていた女性が、愛する娘のために立ち上がり、世界的な大成功を収めたのです。
どんなに困難な環境の中でも希望を失わなかったマンデラ元大統領
次に紹介するのは、南アフリカ共和国のネルソン・マンデラ元大統領です。彼は一九一八年七月生まれで、若い頃から反アパルトヘイト運動に身を投じ、一九六二年に逮捕されました。四十四歳のときのことです。それ以降、二十七年にわたって獄中で過ごしました。
皆さん、人がそれだけ長い期間を監獄で過ごせば、どうなると思いますか。ほとんどの人は希望を失い、〝廃人〟になってしまう人もいるでしょう。ところが、マンデラ氏は一度たりとも希望を失うことなく生き抜きました。
入獄してから十数年が過ぎた頃、娘が監獄に面会に来ました。彼女は生んだばかりの赤ちゃんを連れてきていて、マンデラ氏にこのように語りかけました。
「お父さん、苦労が多いでしょう。私は結婚して幸せにしています。赤ちゃんが生まれました。お父さんの孫娘です。名前をつけてあげてください」
そのときマンデラ氏は、南アフリカで「希望」を意味する言葉を孫娘に贈りました。娘はその瞬間、強い衝撃を受けて泣き出したそうです。当時、黒人を取り巻く環境は改善されることなく、人々は「希望」を持てずに暮らしていました。一方で、獄中で母親の病死や息子の事故死を知り、葬儀に参列することも許されないなど、最も悲惨な立場にあったマンデラ氏が、「希望」という言葉を手離していなかったのです。
一九九〇年に釈放されたとき、マンデラ氏はすでに七十歳を超えていました。それでも、彼の出獄を待ちわびた人々の後押しを受け、一九九一年にアフリカ民族会議の議長に就任。一九九三年に、アパルトヘイトの撤廃に尽力したとして、ノーベル平和賞を受賞しました。そして、一九九四年、南アフリカ初の、全ての人種が参加した普通選挙を通して大統領に就任したのです。
マンデラ氏は、「人生で最も大きな光栄は、決して倒れないところにあるのではなく、倒れるたびに立ち上がるところにある」という信念を持っていました。監獄でどんなにひどい仕打ちを受けたとしても、毎日、腕立て伏せや腹筋運動をして、健康を維持しました。私たちの人生において、困難で骨が折れることはたくさんありますが、成功する人は、それらの困難を〝自分を強くしてくれる恵みだ〟と捉えているのです。
幼い頃に抱いた夢を諦めずに追いかけ続けた松山英樹選手
最後は、ゴルフの松山英樹選手です。彼は今年四月、米国で一九三四年から続く、歴史と伝統のある大会「マスターズ・トーナメント」で、日本人、さらにアジア人で初めて優勝しました。勝利者に授与される「グリーンジャケット」を着た姿を、新聞やテレビで見た方も多いのではないでしょうか。
松山選手がゴルフを始めたのは四歳だったそうです。日本アマチュア選手権に出場したこともある父親の影響を受けて始めました。中学のとき、ゴルフに打ち込む環境を求めてゴルフ部のある中高一貫校に転校。全国高等学校ゴルフ選手権で優勝して頭角を現していきました。
一九九七年、彼が五歳のとき、タイガー・ウッズ選手が史上最年少でマスターズに優勝して、グリーンジャケットに身を包む姿を見て、「タイガー・ウッズ選手のようになりたい」と夢を抱くようになりました。それから二十四年、ついに念願のマスターズ優勝を果たしたのです。彼は記者会見で、「日本人もグリーンジャケットを着られるということを証明できたと思います。僕がタイガーのようになりたいと思ったように、子供たちが僕みたいになりたいと思ってくれれば、すごくうれしい」と答えました。
選手生活の中で、けがをしたり、スランプに陥ったりしたこともあるでしょう。しかし、彼は幼い頃に抱いた夢を決して諦めませんでした。このような言葉を残しています。「目標とする試合で勝てなかった以上、満足することはできません。〝目標が定まっている人間は強い〟というのが僕の信念です」
松山選手の大活躍に刺激を受けて、日本ではゴルフブームが起きつつあるといいます。今後、彼に憧れるゴルフ選手が、たくさん現れることでしょう。
この三人のように、私たちはみ旨における勝利者にならなければなりません。私たちにとって、勝利者の証しである〝グリーンジャケット〟は、天寶勝利家庭が身につける紫色の正装ではないでしょうか。皆さんの願いは、縦横の四百三十数を勝利した、天寶勝利家庭になることでしょう。その道は困難が多く、骨が折れますが、私たちを信仰的に一層強く、たくましくしてくれます。
私たちの愛する子女や後孫のために立ち上がり、決して希望を失わず、夢を諦めず、勝利していきましょう。寝ても覚めても、髪の毛が真っ白になっても、私たちは、神様と真の父母様が夢見られた、天の父母様のもとの人類一家族世界の実現に向かって邁進する天の孝子・孝女になってまいりましょう!
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