キリスト教の教えに対する統一原理の見解サイトに新しい記事が掲載されていたのでご紹介します。
今回はドイツ人神学教授、そして宗教改革の創始者マルティン・ルター(Martin Luther, 1483.11.10 – 1546.2.18)の「ルターと福音主義」の連載第6回目です。
どうぞご覧下さい。
下記はサイトより一部引用です。
(1)「二つのプロセス」(新しい人間に再創造する過程)
選民について、次のような文鮮明師の御言がある。
「今日、歴史的路程において最も重要なことは何かというと、選民圏が生じたということです。この時代になり、世界的途上において、蘇生、長成、完成の三段階の基盤を連結させようというのです。イスラエル民族は蘇生級、キリスト教は長成級、そして統一教会は完成級です。イスラエル圏を中心としたものが旧約時代ならば、キリスト教は新約時代であり、統一教会は成約時代です。」(八大教材・教本『天聖経』、「真の家庭と家庭盟誓」2259頁)
「ですから、何度も接ぎ木しなければなりません。それで旧約時代があり、新約時代があり、成約時代があります。二千年、二千年、そのように三度、接ぎ木したならば、その位置がどの時なのかという事実を知らなければなりません。」(「ファミリー」2006年2月号、第三十九回「真の神の日」の記念礼拝の御言、37頁)
このように文鮮明師(真のお父様)は「三度、接ぎ木したならば」と指摘し、その位置が、つまり現代が、「どの時なのか」という事実を知らなければならないと語っておられるのである。
完全な救いは再臨の時による。霊的救いは「信仰のみ」で「行い」を必要としないが、完全な霊・肉両面の救いは信仰だけによるのではない。「行い」も義とされなければならない。最後の審判においては、各自の「行い」が裁かれるのである。
救いの摂理に時間的プロセスがあり、初臨時に十字架による霊的救いが、再臨時に原罪清算されて〝小羊の婚姻〟による霊・肉両面の完全な救いがなされるのである。
聖書に対する解釈の対立・矛盾の主要な原因は、この二つのプロセスを認識しないところにある。
信仰義認論が完全な救いだと信じ、その立場から聖書を解釈すると、「信仰によって義とされる」という聖句に対立する聖句に出会う。そうすると、ルターのごとくヤコブの手紙を「藁(わら)の書簡」といって軽んじることになるのである。「聖書のみ」という自分の信条にも反する結果になってしまうのである。信仰義認論による聖書解釈が偏った主観主義に陥る危険性がここにあるのである。
(2)「霊の救いのみ」(霊・肉分離の状態)
イエス・キリストは結婚されなかったが、復活後、「霊的イエスと聖霊」(霊的な真の父母)となって信徒を霊的に重生(新生)し、霊的な家庭(教会=共同体)をつくったのである。
完全な人間とはイエスのごとく「心」と「体」が一体である。信仰義認による霊的な重生(新生)は、心と体の分離状態であって霊だけの自由であり、肉はいまだ罪の支配の下にあり、「完全な救い」の状態ではない。先に取り挙げたが、パウロは「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。」(ローマ、8・23)と述べている。また、ペテロの第一の手紙には「からだの汚れを除くことではなく」(ペテロⅠ、3・21)と記述されている。
このように、イエスと御霊(聖霊)によって重生(新生)したキリスト者は、「心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである」(ローマ、7・25)とあるように、自己矛盾の状態にあるのである。言い換えると、霊的に救われているが、からだのあがなわれることを待ち望んでいる状態で、霊肉両面において完全に救われた状態ではないのである。
パウロの研究によって、ルターは彼の著『キリスト者の自由』の中で、霊と肉の「二つの原則」を述べ、霊(心)の義と自由のみを説き、身体の善行を無益だと言い、「霊肉分離」のままの状態で義とさる十字架の恵み(霊的救い)を説いているのである。
キリスト者の自己矛盾について、ルターは『キリスト者の自由』の中で次のように述べている。
「相反する二原則……どのキリスト者も霊と肉という二種類の性質を持つ……霊の面から見れば、彼は霊的な新しい、内なる人と呼ばれ、肉の面から見れば、身体に属する、古い、外なる人と呼ばれる。」(『ルター』、松田智雄編、中央公論社、53頁)
このように、「内と外」、「霊と肉」、「新と旧」の矛盾をもつ存在がキリスト者である。肉体は古いままで罪の中にあるが、信仰によって罪あるまま義とされ、この矛盾のある状態で救われているというのである。
つまり、この救いの状態は、心は罪から解放されている状態ではあるが、まだ体のあがなわれることを待ち望まなければならない状態なのである。したがってキリスト者は、肉体は罪の律法に仕え、心に戦いをいどんでくる状態なのである、すなわち心と体の分裂状態なのである。
この点をさらにルターの言葉で検証してみよう。
「ローマ書七章やガラテア書五章でパウロが、聖徒や敬虔な人々において、霊と肉との戦いはまことに激しく、霊肉のいずれかがおのれの欲するところをなしえないほどである、と教えていることをさしている。
この事実から私は、もし人間の本性が、み霊によって再生させられた人々においても、善に向かって努力しないばかりか、かえって善に対して反発し逆らうほど悪であるとすれば、いまだ再生もしておらず、旧き人としてサタンのもとに仕えている人においては、どうして善へと努力するであろうか、と断定したのである。」(『ルター』松田智雄編、中央公論社「奴隷的意志」、252頁)
このようにルターは、「み霊によって再生させられた人々においても、善に向かって努力しないばかりか、かえって善に対して反発し逆らうほど悪である」と言う。
この文章は、「恵み」(十字架の救い)が「霊的な救い」であって、み霊(聖霊)によって「再生」したキリスト者ですら霊と肉が熾烈に戦っているというキリスト者の実存(自己矛盾の状態)を率直に認めたものなのである。
統一教会に反対する一部の牧師は、ローマ書(7・22~23、7・25)のパウロの「心と体の葛藤」について、罪、律法、死の下にある一般人間のほろびについて、それもキリストの出来事の光の下で過去をふりかえって見るという仕方で、語っているのであるといい、「統一原理」の聖書解釈は間違っている、聖書を自分の都合のよいように引用し、解釈していると批判する。しかし、パウロはローマ書8章23節で、「御霊(聖霊)の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、……からだのあがなわれることを待ち望んでいる。」と言っているのである。パウロの見解と上述のルターの見解は一致している。
この聖句を反対派牧師らは曲解しているのである。彼らこそ、聖書を自分の都合のよいように引用し、偏った聖書解釈をしているのである。
信仰義認論を説く本家本元であるルターが、上述のごとく「統一原理」と同じ聖書解釈をし、救われた後のキリスト者、すなわち聖徒や敬虔な人々の霊肉分離とその激しい葛藤を述べているのである。
ところで、ルターはこの肉から出てくる「悪い欲望」(邪心)を抑えるために、断食や労働などの「行い」の必要性を消極的ではあるが、次のように説かざるを得なかったのである。
「行ないは、ただ身体が従順になり、悪い欲望から清められ、また目が悪い欲望に向かうのはただそれらを追い出すためという考えでなされなければならない……自分のわがままな心を抑えるために、身体が必要と思うだけ断食し、徹夜し、労働すればよいからである。」(同、67-68頁)
このように、「わがままな心を抑える」ために、信仰だけでなく行いが必要であることを説いている。それは肉を打つことによって邪心を弱らせ、本心(神に向かう心)の志向する目的に体を従わせようとするために他ならない。
統一原理の創造原理で説いているように、霊の浄化と悪化は、肉体の「行い」(善行か、悪行か)によることをルターは知らないのかもしれないが、『キリスト者の自由』の中で、「悪い欲望」を抑えるために、身体が必要と思うだけ「行い」を実践するように説いていることは原理的であると言えよう。
(3)「結婚」について
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