キリスト教の教えに対する統一原理の見解サイトに掲載されている記事を紹介します。
キリスト教神学に対する統一原理の見解を解説しているサイトで、
今回はスイス出身で、プロテスタントの神学者ブランナーの「出会いの神学」の連載4回目です。
下記はサイトより一部引用です。
ブルンナーは『結合点』(言語能力と応答責任性)、すなわち「人間性」について次のように述べている。
「神の救済の恵み(Erlösungsgnade)に対して結合点が存在するということは、……その人とは、石や丸太でなく、ただ人間的主体だけが神の言葉と聖霊を受けることができるということを承認する人のことである。結合点とはどういうものであるかというと、罪人からも失われてない形式的な神の像(かたち)、すなわち人間を人間たらしめるもの、人間性、前述の二つの要素でもって言えば、言語能力と応答責任性である。人間は言葉を受けることができる存在であるということ、そしてまた人間だけが神の言葉を受けることができる存在であるということ、そのことは罪によってもなくならせられない。……それは純粋に形式的な、話しかけられることができるということ(Anspruchbarkeit)である。そもそも、この話しかけられることができるということはまた、応答責任性の前提でもある。」(ブルンナー著『自然と恩寵』、150頁)
このように、ブルンナーは、真の神から「話しかけられることができる」という「結合点」(言語受容能力と応答責任性)、すなわち「人間性」は、罪によってもなくなっていないというのである。しかし、バルトは『結合点』(人間性)を否定し、神認識は上からの一方的な恵みによると言い、人間は自分で自分を救うことはできないと主張するのである。
ブルンナーは、「神の恵みはただすでに罪について知っている者のみが理解することができる」(同、151頁)と述べた後に、罪と結合点の関係について、次のように述べている。
「神について知ることなしには、いかなる罪も存在しない。罪は常に『神の前に』ある。……神の言葉が初めて人間の言語能力を造り出すのではない。言葉を聞きうる能力があるという性質を、人間は決して失ってしまっていない。その性質は、神の言葉を聞くことができるということに対する前提である。……結合点についてのそのような教えによって、『恵みのみ』についての教えが少しも危険にさらされないことは明らかである。」(同、151頁)
このように、一方において、「恵みのみ」の教えが少しも危険にさらされないというが、他方では、対象に言語受容能力と応答責任性がなければ、上よりの「恵み」(和解)の働きかけに対し、対象は応答できないというのである。
続きはキリスト教の教えに対する統一原理の見解サイトに掲載されています。
コメント