調布教会ホームページが連載している「Google Mapで訪ねる主の路程」では、「平和を愛する世界人として」(文鮮明自叙伝)に登場してくる文先生の歩まれたゆかりの場所を紹介していますが、12月という時期に関係する「特別編-そこは41年前の景昌里(キョンチャンリ)だった」のコラムが掲載されました。文鮮明先生が金日成主席と会うまでの生涯路程から驚愕の事実が解説されてます。以下、同記事をそのまま引用して紹介します。
特別編-そこは41年前の景昌里(キョンチャンリ)だった
「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、死の道を何度も越えて行かれた文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。今回は特別編として、「そこは41年前の景昌里(キョンチャンリ)だった」のコラムを引用して紹介します。
〈お断り〉このコラムは、ライター個人の研究に基づいて発表するものであり、統一教会本部の公式見解ではありません。個人研究のため、確証と裏付けがすべて得られているとは限らないことをご了承ください。
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●文鮮明師と金日成主席との歴史的会談、その4日前の映像が物語るもの
▲文鮮明先生夫妻と金日成主席-1991年12月6日
12月最初の週は、文鮮明先生の生涯路程の中でも、戦後世界の歴史の中に、しっかり記憶されているできごとがあった日がある。1991年12月6日、文鮮明先生と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の金日成主席との会談が実現した日だ。
さらに、12月初旬といえば、もうひとつ印象的なできごとがある。文鮮明先生が北で歩んだ路程の最終になることがらだが、韓国動乱(朝鮮戦争)の戦火の中、2人の弟子とともに、平壌を脱出して南下を始めたときである。1950年12月4日のことだ。
この2つのできごとがどのように絡み合い、連関しているか、解きながら、文先生の歩みをふり返ってみたい。
2013年の夏、文鮮明先生の聖和一周年を期して、韓国・MBCnetによる『文鮮明-統一と平和のための生涯』が韓国国内で放映された。その後、日本統一教会本部によって、同映像の日本語字幕版や日本語吹き替え版がYouTubeにアップされ公開されたので、視聴された方も多いことだろう。
MBCnet映像より-万寿台議事堂で語る文鮮明先生と演説を聴く朝鮮労働党の要人
驚いたのは、この番組に合わせて初公開されたと思われる秘蔵映像である。文鮮明先生が平壌にある万寿台(マンスデ)議事堂にて、演説をぶっているシーンだ。金日成主席に会う4日前の1991年12月2日、万寿台議事堂で党の重鎮達を相手に「主体思想では南北統一はできない」と、文鮮明先生がすごいけんまくでしゃべっている場面である。このとき、側近の朴普煕先生は“もう命がない”と震えあがり、頭を抱えてしまったと後に述懐しているほど、演説の内容は過激で、北の要人たちにとうてい受け入れられるものではなかったことが十分に想像できる。
『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』(P.272~P.274)の中で、こと細かく書かれている有名な場面だが、これまで秘蔵映像だったものが、初めて公開されたものだったのではないだろうか。
●その場所は41年前の景昌里(キョンチャンリ)だった
実は、万寿台(マンスデ)議事堂が建っている所は、さかのぼること40数年前、文鮮明先生が38度線を超え、平壌に初めてやって来て、その場所を中心に伝道活動を展開した「景昌里(キョンチャンリ)」の地である。これは、この連載「Google Mapで訪ねる主の路程」の「第13回-平壌での活動と景昌里集会所」でふれた。
▲1939年の平壌地図-文先生の伝道中心地、景昌里
「平壌西部」「平壌東部」陸軍参謀本部陸地測量部・朝鮮総督府発行
▲Wikimapiaで見た現在の平壌-万寿台議事堂は万寿洞と地名が
書かれている場所にある巨大な建物
▲万寿台議事堂全景-Wikimapia(handydandy61)
景昌里での活動は、信徒の家を集会所にしながら、何度か移ったことが伝えられている。平壌に来た1946年6月から平壌を脱出する1950年12月まで、この地は、文鮮明先生が伝道活動を繰り広げ、熱い説教を繰り返した中心地であった。この間、大同保安署への連行と拷問、平壌内務署による逮捕、平壌刑務所への収監と興南収容所での強制労働の期間があるので、この期間の半分以上である2年9ヶ月もが牢獄での生活なので、ついそちらに目が向きがちだが、あくまでも北での活動の拠点は平壌の景昌里なのである。
景昌里こそ、文鮮明先生が、命をかけ、精誠を込めて、神と平壌の人々を愛し尽くした地である。まだ原理として体系化されていなかったものの、集まってくる人々に燃えるようなみ言を語り、昼夜区別なく伝道に明け暮れていた。その場所の価値をサタンはよくわかっていたのだろう。その後、共産主義国家の最高議決機関である万寿台議事堂をどーんと建て、思想的・霊的に封印していた、というのは考えすぎだろうか。
文先生と二人の弟子が1950年12月に平壌を脱出して以来、41年の歳月が過ぎた。その昔は信徒の家があちこちにあった景昌里。今は広い敷地にどでかい万寿台議事堂が建てられたその地で、閉ざされた封印を解くために、再び熱い演説、いや熱い説教を敢行した文先生。誰が見ても暗殺されるのを覚悟の上の命をかけた行為である。
さかのぼること40数年前は、大同保安署に連行されて瀕死に至るまで拷問を受け、さらに平壌内務署による逮捕された後も、地獄さながらの興南監獄(興南収容所)で強制労働を強いられ、死の直前まで追いやられた。しかし、議事堂での演説後は、殺されることはなかった。逆に金日成主席に会うことができる大きな条件となっていった。
もちろんこれには、大きな土台があったことは、信徒なら忘れてはならないだろう。文先生が北朝鮮を訪問する前に、ハワイで特別な精誠をささげていたことが「平和メッセージ13」にも語られている。恨みや憎しみがいっさい心の片隅にすら残らないほど、許し愛することができるように、徹底的に祈られていったという話を聞く。その土台があったからこそ、古くからの知り合いのように語りあい、兄弟のようにわかりあえたのだ。
●歴史的な文鮮明先生と金日成主席との会談、その場所は興南
4日後、金日成主席との会談が実現する。心から和解しあう会談のようすや、その成果は『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』(P.259~P.272)の中に詳細に書かれているので、ここではふれない。
▲興南・麻田主席公館で会う金日成主席と文鮮明師
金日成主席との会談の場所も、同じように文先生が41年前に苦難の路程を歩んだ場所で行われた。そう、それは興南(フンナム)である。文鮮明先生が興南監獄(興南収容所)で強制労働を強いられた期間は、1948年5月から国連軍によって解放されるまでの1950年10月だ。(興南収容所と興南肥料工場は「第16回-興徳里(フンドグニー)特別労務者収容所と興南窒素肥料工場の強制労働」を参照)
実に、解放されてから41年後に、金日成主席と興南にある麻田(マジョン)主席公館で会うことになったのである。麻田主席公館は、文先生が労働していた興南肥料工場から東方約3kmの位置にあり、海を180度見渡すことができる岬に建設されている北朝鮮の“迎賓館”だ。
「蕩減(とうげん)復帰」は、中心人物・期間・条件物からなる一定の「条件」を立てて、サタンを分立しながら神と人間との関係を復帰し、取り戻す行動や摂理のことを言うが、文鮮明先生の歩みは、「サタンを分立する期間」として代表的な「40数」という期間だけでなく、「場所」も合わせて、蕩減(とうげん)復帰し、本来の関係を取り戻す歩みをされていることに改めて驚きを禁じ得ない。常人ではないすごさである。
●動乱の中、命からがら平壌を脱出したその場所とは?
では、もう一つのできごとにふれよう。それは韓国動乱(朝鮮戦争)の戦火の中、文鮮明先生が金元弼先生と朴正華氏の2人の弟子とともに、平壌を脱出して南下を始めた1950年12月4日夜のことだ。
▲写真1:落とされた大同鉄橋と鉄骨を渡る避難民(1950年12月4日)
北から中国人民義勇軍が怒濤の勢いで迫ってくる。国連軍から避難命令が出され、平壌市民はいっせいに避難し始めた。大同江(テドンガン)は北東方向から西南方向へうねりながら流れているが、平壌の街の大部分は、大同江の西岸に寄っている。避難するためにはまず、大同江を渡らなければならないが、市内唯一の橋である大同鉄橋は、爆撃で破壊されていた。朝鮮戦争を記録する多くの写真の中でも、橋桁が落ちて損壊した大同鉄橋の骨組みをつたい歩く避難民の写真1はとても有名だが、実は写真が撮影された日はまさしく12月4日その日の日中である。
もう一つ写真を紹介しよう。NARA(米国国立公文書館)所蔵の写真で大同江の浅瀬を歩いて避難する人々の写真2である。この写真の撮影日は前日の12月3日である。撮影場所は明らかでない。が、戦前の平壌地図や、Google Mapでの地形図を穴の開くまで眺めていた筆者にはひと目で目安がついた。写真の撮影場所は、牡丹台(現在の呼称はモランボン)を対岸に見た大同江東岸と推測できる。後ろに見えている丘陵が牡丹台特有の地形を表している。景昌里(キョンチャンリ)から見ると、ちょうど北東方向にあたる。
▲写真2:大同江を渡って避難する平壌市民(1950年12月3日)
文先生一行も大同江を渡らなくてはならないが、上の2つの方法は取れなかったことだろう。なにしろ足を骨折したため、ギブスをして歩けない朴正華氏がいる。金元弼先生が朴氏を自転車に乗せて、文先生と合流したときには、すでに夜で暗くなっていたに違いない。必然的に文先生一行は、大同江にある渡し舟のような手漕ぎ舟を探したことだろう。3人が大同江を舟で渡って、平壌脱出を始めたという話は、教会史である『統一教の足跡』に載っている。しかしながら、どのあたりの場所を渡ったのか、訳された漢字の地名が間違えており、どうもはっきりしない。どうやらその場所はあまり重視されていないようなのだ。
そんな疑問をもっていた中、統一教会信徒のコミュニティサイト「天一net」にある研究コミュニティ「主の路程」に、貴重な情報があげられていた。コミュニティの議長H氏に教えていただいたのは、1976年に全国大学原理研究会出版部から出版された『信仰と生活 第四集-先生の歩まれた道』に掲載されている文先生のみ言や『統一教会史 上巻』の記述である。自分もかつて読んだことがあったがすっかり忘れていた。もう一度読み返すと、舟で大同江を渡った場所が文先生の口から明確に語られていたのだ。その部分は最後に引用するのでご覧いただきたい。なお、「先生の歩まれた道」は、当時の統一教会の中で、主の路程をまとめた出版物がまだ何もなかった中、当時の太田原理研究会会長の指示で原研OBと大学生たちがまとめた草分け的な出版物だった。
▲Google Mapによる現在の平壌市街全体から見た各ポイントの位置
1:写真1の撮影位置/2:写真2の推定撮影位置
A:「景昌里」の位置/B:後述する「万景台」の位置
●脱出した場所は金日成主席の生誕地、そして対岸の地名にびっくり
▲後に万景台となる場所に渡し舟の舟着場があった(「土城」1939年陸軍参謀本部陸地測量部・朝鮮総督府発行)
大同江を渡ったその場所は、ちゃんと文先生自身の口から「金日成の故郷である万景台(マンギョンデ)」と語られていた。金日成主席の故郷を通って平壌を脱出していたとは。これはもうびっくりの何ものでもない。しかし、そうなら話が早い。さっそく万景台(マンギョンデ)の位置をWikiMapiaやGoogleMapで探した。
現在、金日成主席の生家がある万景台は、一帯が記念公園になっている。それはすぐわかった。しかし、1950年当時、まだ記念公園もなかったはずで、その地は無名だったに違いない。
万景台と呼ばれているその場所を戦前の平壌市街が載っている地図(1939年発行)で確認した。見てみると、そこは「南里(ナムニー)」という地名であり、舟の渡しがたしかに地図に載っているではないか。おそらく文先生たちは舟着場に残っている舟に乗り込み、大同江を渡られたに違いなかった。対岸には大きい中州がある。そのため、まっすぐ横切らず、川を下りながら斜めに渡っていったと予想した。それが下に示した大きい地図中に引いた赤い点線である。ちなみに、約70年前の地図と、現在の地形とでは、あまり変わっていないことがおわかりいただけるだろうか。
▲川の対岸の地名は「文発里」「文発島」(「土城」1939年陸軍参謀本部陸地測量部・朝鮮総督府発行)
地図を見ながら、さらにびっくりしたのは、舟が川の対岸に着いたと想像される場所の地名だった。そこは「文発里(ムンパルニ)」「文発島(ムンパルトウ)」という地名が地図には描かれていたのだ。つまり、文氏が発つ里、文氏が発つ島、という意味である。現在の北朝鮮でこの地名が残っているかどうかは定かではない。もう残っていないだろう。しかし、文先生たち一行が平壌を脱出した1950年当時、一行はまったく気がつかずとも、この地名は明らかに使われていたはずだ。とても預言めいたものを感じた。
文鮮明先生と二人の弟子が1950年12月に平壌を脱出したその場所は、金日成主席の生誕地・万景台だったわけだが、これは何かとてつもない暗示である。実際に面識はなかったものの、このとき象徴的に出会っていたわけで、それから41年後に文先生と金日成主席が“再会”を果たすことになるのだから。
▲当時「南里」と呼ばれていた万景台と大同江。赤い点線は舟で渡ったと予想されるルート。
(「土城」1939年 陸軍参謀本部陸地測量部・朝鮮総督府発行)
▲Wikimapiaで見た現在の万景台と大同江のようす-上の地図の万景台を回り込んで
いた支流は治水工事により流れが変えられていることがわかる
●場所と時を取り戻す歩みをされた文鮮明先生
今はあまり読まれなくなった眠っている教会出版物の過去資料や、教会史を参照することは、決して役に立たないことはなく、貴重な情報がまだまだ眠っていることがわかった。主の路程の研究をする信徒が、有志であれ、真の意味と正確な情報を見いだし、もっと補強していく必要があることを感じる。
そして、重要なことは、文鮮明先生を見習って信徒が歩む道のりだ。蕩減復帰の道は、「復帰する」「取り戻す」歩みだが、その場所と時をあわせて復帰するように、文先生は歩まれていたことに驚きを禁じ得ない。「時」も重要だが、「場所」も重要なことが改めて実感させられる。読者のみなさんも、文先生が歩まれた道のりをもっともっと研究してみようではないか。
ここでは記事本文をそのまま引用しました。ただしみ言資料『信仰と生活 第四集-先生の歩まれた道』『統一教会史 上巻』の引用部分を割愛してあります。また拡大して見られる画像や地図なども省略し、小さい画像のみにしています。地図などは拡大表示しないと見えづらいと思われます。引用されたみ言資料や、拡大画像・拡大地図をくわしくご覧になりたい方は、次をアクセスしてください。
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