韓国仏教の最大宗派である大韓仏教曹渓宗の機関紙 『天地日報』で2013年8月10日掲載
宗教超えた文鮮明、唯一の平和の人生を歩く
[天地日報=パク·チュンソン記者]
世界を舞台に愛と平和を叫ぶ宗教であり、平和運動家として広く知られている統一教(現在の世界平和統一家庭連合)の創始者文鮮明。彼は自分の人生を告白した回顧録(自叙伝)で自らを”平和を愛する人物”と説明した。
『私は、たった三文字にすぎないこの名前を言うだけでも世の中がざわざわと騒ぎだす、問題の人物です。お金も、名誉も貪ることなく、ただ平和のみを語って生きてきただけなのですが、世の中は、私の名前の前に数多くの異名を付け、拒否し、石を投げつけました。』
生涯の生活を回顧したこの一言には、彼の信念や価値観、そして数々の逆境と試練を乗り越えてきた年月の足跡がそのまま溶け込んでいる。
文鮮明総裁は、1920年1月6日平安北道定州のキリスト教徒の家に生まれた。平安北道定州郡徳彦面上思里で独立運動家の子孫である父、文慶裕、母、金慶継の8人兄弟の次男に生まれたのだ。彼の叔父である文潤國牧師は、3.1運動平安北道の責任者として2年間の獄中生活を送った。彼が10歳の時に家族全員がキリスト教に入信した。16歳になった復活祭の日の朝に文総裁は幻想のような体験をすることになる。以来、彼は宣教の心を抱いて信仰生活をすることになる。光復前後で活発な宣教活動のために刑務所に行くこともあった。
◆ 平和を唱える宗教指導者文鮮明は、彼の始動期には、多くの学生が従うことになる。文総裁は、朝鮮戦争休戦翌年の1954年、ソウル北鶴洞で”世界基督教統一神霊協会”を創設する。以来、教勢が爆発的に成長する新興宗教を警戒する韓国教会の迫害で再び服役することになった。文総裁が立てた統一教は、わずか50年で世界194カ国300万信徒を擁する宗教団体に成長する。
現在は、世界的に拡大する組織として、その名声が全世界の人々に知られているが、宣教初期はそれほどたやすくはなかった。彼は1950年後半に国内の宣教活動の制約を受け、困難を伴うようになるとともに、いち早く世界に目を向ける。
文総裁は、1958年に日本を皮切りに、海外宣教に向けて出発した。彼は1965年に弟子2人と一緒に日本、アメリカ、ヨーロッパなど世界40カ国を巡回し、講演を行った。 1970年代初め、米国に渡って伝道を陣頭指揮するなど、海外宣教を本格化し、統一教の教勢は爆発的な成長を見せる。
回顧録で”平和の世界を実現するために、私は生涯、この世の底辺や辺境の地を訪ね回りました。”と明らかにした彼は、1970年代から世界の平和運動に邁進し始めている。
文総裁は、宗教を超えて、政治、経済などの分野を広げながら影響力を高めていった。 70年代前後の米国首脳との出会いを通じて、世界平和に対するビジョンを説明しもした。アメリカのアイゼンハワー大統領とニクソン大統領に会った席で、彼は、アメリカは神の祝福を受けた国として、平和な世界を作ることを率先して行わなければならないと強調した。
彼の世界平和への熱い想いとビジョンは、宗教や民族を超越し、世界の人々の心の中に感動を与え始めている。鉄の壁クレムリンのゴルバチョフ旧ソ連共産党書記長と北朝鮮の金日成も、文総裁の前に心の扉を開いて世界平和の話をする奇跡のようなことを起こして感動を与えた。
訳・文責Harikawa
金正恩に会った朴相権平和自動車社長
8月11日記事 天地日報
[天地日報=ミョン・スンギル記者] パクサングォン(朴相権)平和自動車社長が7月27日、北朝鮮の戦勝節行事に参加するために訪朝し、金正恩北朝鮮国防委員会第1書記と会っている。(写真提供:平和自動車)
[天地日報=ミョン・スンギル記者]パクサングォン(朴相権)平和自動車社長が7月27日、北朝鮮の戦勝節行事に参加するために訪朝し、金正恩北朝鮮国防委員会第1書記と会って握手している。(写真提供:平和自動車)
[天地日報=ミョン・スンギル記者]パクサングォン(朴相権)平和自動車社長が7月27日、北朝鮮の戦勝節行事に参加するために訪朝し、金正恩北朝鮮国防委員会第1書記と会って握手している。(写真提供:平和自動車)
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