『ファミリー』(2000年10月号)に掲載された、日本統一教会創立の約2か月後(1959年12月)に入教された先生(777家庭)の証しを一部抜粋してご紹介します。
◇ ◇ ◇
さて、私がどのように真のお父様(文鮮明師)に出会ったのかをお話ししましょう。1965年1月に、真のお父様は日本に聖地を決定されるために来日されました。そのときが、私にとっての真のお父様との最初の出会いでした。
(中略)
真のお父様もうれしそうに、元気にみ言を語り続けてくださいました。満面に笑みを浮かべての説教でした。一動作、一動作に“こんなにもあなたたちを愛している”という、真のお父様の世界を感じ取りました。
(中略)
話が進んで、お父様が「何か聴いてみたいことがある?」と、私たちに問われました。「UFOは存在しますか?」などと、面白い質問が出ました。中には、全くばかげた質問もありました。
そのとき、だれかが手を挙げて質問しました。「イエス様はどういうかたでしたか?」。この質問には深い意味が隠されていると思います。
(中略)
そのときに、真のお父様がどのように答えられるか、その答えが、私にとっては非常に大切な答えだったのです。クリスチャンとしての私にとって、イエス様は「救世主」です。それは、統一教会に来てからも変わらないのです。むしろ、既成教会にいたときよりも大きな位置を私の中では占めていました。
そのとき、真のお父様は一瞬、天井を見られてから、すぐに下を向かれました。そのとき、答えはどのように発せられるのかと、会場はシーンとなりました。
ボタボタと、水滴の落下する音がしました。その後、再び真のお父様が真正面を向かれたとき、それが、お父様の涙が床に落ちた音だと知ったのです。
そして、静かに語られました。「あの男は、かわいそうな男だったよ」。この一言は、私と真のお父様との重要な出会いとなり、絆を結ぶ言葉となりました。
しかし、この言葉は、イエス・キリストを信じないで来た人、その反対にイエス様を深く愛したクリスチャンであるけれども、「(統一)原理」を聴く機会を逃した者にとっては、考えることのできない言葉です。
イエス様を「あの男」と言われたのです。聞き方によっては、非常に乱暴な言葉でした。でも、その言葉を聞いたとき、震えるほどに私は感動したのです。そして、“このかたはイエス様である”と思いました。2000年の時を超えて、“イエス様が、ここにお立ちになっておられる”と思ったのです。
(中略)
普通であれば、イエス様を三人称で呼ぶ場合、「あのかたは…」と敬称をつけて言うでしょう。ところが、真のお父様は「あの男」と言われたのです。普通、会話で自称に敬語は使用しません。
真のお父様が、イエス様を「あの男」と言われたのは、自称で言われたのです。「あの男」と語られた真のお父様は、イエス様を客観的に見詰めるのではなく、十字架をご自分の痛みとして、無念の心情を見詰めておられたのです。
だからこそ、「あの男は、かわいそうな男だった」と言われたのです。そのとき、時を超え、歴史を超えて、真のお父様はイエス様を見詰めておられるからこそ、私は“このおかたは、イエス様である”と思ったのです。
“イエス様の再臨として、目の前にお立ちになっている”と思いました。そのとき、名実共に、真のお父様はイエス様の再臨として、私の心の中で合致したのです。
(『ファミリー』2000年10月号より)
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