『平和を愛する世界人として(文鮮明師自叙伝)』には、日本留学時代に、文鮮明先生が四谷の橋の欄干(らんかん)柱を抜いて、特高警察と格闘した話が登場します。その四谷の橋の欄干が、もしかしてこれかも? とする調査報告記事が、調布教会ホームページが連載しているコンテンツ「Google Mapで訪ねる主の路程」の第7回後編「地下独立運動と戸塚警察署、四谷見附橋の格闘、四谷・品川の貧民窟」に掲載されましたので、記事をそのまま紹介します。修理した跡がある橋の欄干写真をもっと大きく見る場合や、同連載記事を一通り参照する場合は、リンクから同サイトを訪ねてください。
四谷見附橋に使われていた欄干が保管・展示、しかも壊れた跡が…
文先生が抜いて戦ったという四谷見附橋の欄干(らんかん)とは、いったいどんなものだったのだろう?と想像をふくらませながら、調べていくと、大正時代の四谷見附橋が移設・復元されていること、当時の四谷見附橋の欄干が新宿区歴史博物館に保管・展示されていることをつきとめました。
そこで、現在の四谷見附橋の欄干、および新宿区歴史博物館に展示してある当時の欄干を見てきました。まずは現在の四谷見附橋です。
▲道路拡張で付け替えられた現在の四谷見附橋。当時の欄干がほとんど再利用されている。欄干中央の
銘板には「大正二年九月成」の文字。塗装し直されているが欄干は当時のものがそのまま使われている。
次に、四谷見附橋から徒歩10分の場所にある新宿区歴史博物館に行きました。新宿区歴史博物館の正面玄関脇に四谷見附橋の欄干「高欄」が保存・展示されています。
▲新宿区歴史博物館に展示されている四谷見附橋の欄干「高欄」を解説した説明版と実物
説明版によると、四谷見附橋の竣工は1913(大正2)。平成2年の架け替え工事で、古い橋は、八王子市の長池公園(南大沢)に移築・復元された一方、それまでの欄干はきれいにされ、新しい四谷見附橋に再利用されたとあります。そして「再使用できない部材の一部が当館に寄贈された」と記述されています。再使用できないとの意味は、あたかも壊れた部分を修理したところがある部材、という意味に受け取れました。
よくみるとまん中の三本だけが色・材質が違います。欄干上部に修理してはめ込んだような形跡もみられます。間違いなく壊れた跡です。修理してあるために、現在の橋には、再使用されなかったのではないかと類推できます。
▲説明版に載っている大正9年竣工当時の四谷見附橋のようす/八王子市にある長池公園に移設・復元されている当時の橋
大正時代の四谷見附橋は現在、八王子市にある長池公園に移設・復元されています。橋の主要構造物は再利用されており、橋の欄干は複製物だということです。
「Google Mapで訪ねる主の路程」-第7回後編「地下独立運動と戸塚警察署、四谷見附橋の格闘、四谷・品川の貧民窟」
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