我々は神氏族メシヤ勝利をいつ果たすのか

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六月十四日、東京・渋谷の松濤本部で「6000双家庭会 6月度 定例勉強会」が行われ、首都圏の六〇〇〇家庭約八十人が集いました。メッセージに立った田中富広会長は、安倍晋三元首相の銃撃事件から三年がたつことに言及したうえで、神様を中心とした摂理を理解するポイントを説明し、私たち選民祝福家庭の果たすべき責任について訴えました。(文責・編集部)

安倍元首相の銃撃事件を
いかに受け止め、整理するか

皆さん、おはようございます。
七月八日に、安倍晋三元首相が銃撃されてから三年を迎えます。この一日を、私たちがどのような視点を持って迎えたらよいのか、本日は、皆さんと共に考えてみたいと思います。
ちまたでは、安倍元首相についてさまざまな議論がなされてきました。歴史的な日本のトップリーダーとして国家のかじ取りをしたと高く評価する人、あるいは、「アベノミクス」と呼ばれた経済政策の成果を称賛する人もいます。また、旧安倍派の国会議員や多くの文献の中で、安倍元首相の類いまれなる功績について論じられています。その一方で、「モリカケ」という言葉によって、暗いイメージを貼り付けたままの人もいれば、〝臭いものは闇に葬った首相〟と断じる人もいます。
社会に浸透する多様な論評を踏まえつつ、私たち神を信じる者は、安倍元首相の銃撃事件をどのように整理すべきなのでしょうか?
昨日(6月13日)、銃撃事件を起こした山上徹也被告に対する初公判の日程が本年十月二十八日と決まりました。報道によると、いわゆる「殺人」に関しては本人の自供があり、あまり議論されないだろうということです。一方で、母親の家庭連合への高額献金が山上被告の情状酌量につながるかどうかが争点の一つになるということでした。この事件は、親が行った二十年前の献金に対して子供が恨みを抱いて起こしたとされています。私は、その動機と犯行があまりにもかけ離れていると感じています。
改めて私たちは、信仰者として、家庭連合の信徒として、事件をどのように受け止め、整理していくかが問われていると思います。

「天の母」を表に出し、神様は
「天の父母」であると証す

真のお父様が聖和されたあと、真のお母様は三年間の侍墓生活を過ごされました。そして、その終了直後に、韓国・清平の清心平和ワールドセンターで集会を持たれ、天上のお父様にメッセージを送られたのです。
「お父様、これ以降は心配しないでください。私たちが必ずや責任完遂いたします。ですからお父様は、永遠なる本郷苑において、これまで孤独であった神様、天の父母様を慰労され、頌栄の対象として自由の身となられることを懇求いたします!」(『世界家庭』2015年10月号9ページ)
この日以降、真のお母様は地上の摂理に全責任を持たれ、摂理は急展開していきました。
真のお父様の聖和後、真のお母様が最初になさったことは、神様を「天の父母様」と称する宣言です。その後に迎えた最初の「真の神の日」を「天の父母様の日」と定めて式典を挙行されました。このときネットには、「お父様の伝統を変えてしまった」と叫ぶ、たくさんの批判があふれました。
続いて、真のお母様は、「独り娘」の概念を前面に押し出して、「イエス様の本来の願いは何だったのか。イエス様の本当の使命は何だったのか」と問いかけ、イエス様の本質を理解してこなかったキリスト教の限界について語り続けられました。
真のお母様は、次のような内容を繰り返して強調されました。
〝イエス様は地上で実体聖霊を迎えて人類の真の父母にならなければならなかった。それができなかったので、「私はまた来る」と言い残し、小羊の婚宴が歴史の願いとなって、今日まで月日が流れてきた。そこに、二千年のキリスト教の歴史の本質的な目的があった。しかし、その本質を理解できず、イエス様は十字架にかかるために来たという論点に終始し、イエス様の本来の目的を見失ってしまった。その結果、独り娘は封印されてしまった〟
真のお母様は自らが、歴史が待望し続けた独り娘であると明かし、天苑宮・天一聖殿入宮式(4月13日)において、「天の母」の実体が「ホーリーマザー・ハン」であると力強く宣言されました。
この宣言にも反発の声が聞こえてきました。真のお母様は結論を先に語られることが多く、いろいろ説明して最後に言いたいことを述べる方ではないようです。ただ、結論が先にドンと来ると、聞く者に強い衝撃波が走り、思考が揺れてしまうことがあるのでしょう。
また、二〇二〇年五月八日には、「天の父母様聖会」が出帆しました。真のお母様は天の父母様聖会について、天の母が人類を抱き、生み変えていくための傘の役割を担うと説明されました。お母様が担ってこられた中心摂理は、天の父の背後に隠されていた天の母を表に出し、神様は天の父だけではなく、天の母でもあると知らせることでした。神様は「天の父母」であると明かし、新たな歴史を打ち立てようとされたのです。
この一連の流れをどのように整理するかは、とても重要なことです。それは、真のお父様が九十二歳の寿命で聖和されたと受け止めるのか、それとも、単なる寿命ではなく摂理的意義があったのだと理解するのか、という課題も解決へと導いてくれます。
私は、このような食口の声を聞いたことがあります。〝真のお父様はたまたま、基元節を前にして聖和された。その結果、真のお母様がお一人で基元節を開くこととなった。それ以降、お母様は、天の母とかホーリーマザー・ハンとか、言いたいことを言って、正に「自分ワールド」をつくり上げた〟。
私たちは、真のお父様の聖和を、時の流れに現れた、ただの出来事にしてしまってよいのでしょうか?

なぜ、真のお父様は聖和されたか

真のお父様の聖和から二か月ほどが過ぎた十月下旬、真のお母様は米国を訪問し、お父様との思い出の地を訪ねながら大陸を横断されました。そして、ニューヨークで米国の食口たちを集めて、み言を語られました。
「お父様は皆さんを百パーセント信じましたが、韓国の食口や皆さんの実績がないことに対して、とてもがっかりされました。『私はあなたたちをあまりにも信じすぎたな!』と言われて、私が『神霊と真理で草創期の牧会に戻ります。生きている教会運動をします』と申し上げると、『オンマ、本当にありがとう!』と言われたのです」(『世界家庭』2021年11月号28ページ)
その後、韓国に戻られた真のお母様は、韓国在住の日本人婦人たちに、次のみ言を語られました。
「皆さんが韓国に来て、嫁ぎ先で氏族メシヤになりましたか? いつまでにその責任を果たしますか? お父様が基元節のDデーを定めてくださいましたが、皆さんはどうしましたか? あらかじめ皆さんが責任を果たしていたならば、今、お父様が生きていらっしゃったかもしれません。皆さんがお父様を霊界に送ったも同然です。ですから、皆さんの責任が加重されますが、それをいつまでまた先送りするのですか?」(『世界家庭』2021年12月号78ページ)
真のお母様は、真のお父様の聖和はあるべきではなかったと理解されていることが分かります。私たちの不足ゆえに、お父様は霊界に旅立たれました。
その不足とは、私たちの宿命である神氏族メシヤを勝利できていないことです。真のお母様は、〝お父様の聖和式の場に一国のリーダーがいないのは残念だったが、悲劇の核心は、神氏族メシヤを勝利した家庭が一家庭もいなかったことである〟と語られました。
摂理的にあってはならないことが、現実に起きました。真のお母様は真のお父様に、必ず天の願いを果たすと約束し、侍墓生活に入られました。
そして三年を経て、地上摂理の最前線で私たちを牽引されるようになったのです。真のお母様は、「天寶」という称号を私たちに下さり、激励してくださいますが、本質は神氏族メシヤです。「神氏族メシヤ勝利による救国救世基盤勝利!」なのです。

〝母を中心に平和をつくって
いかなければならない時代が来た〟

真のお母様の一連の取り組みの摂理的核心は「天の母」です。天の母を表舞台に引き上げて、ひたすら神様を解放するために投入されました。もし、独り娘に関するみ言を語ることを控えていたら、真のご家庭の今日の難しい状況は免れられたかもしれません。
人間始祖アダムとエバの堕落以降、子女を失った神様は、父母の位相も失われました。「ヤハウェの神」「主なる神」「父なる神」などと呼ばれてきましたが、父母にはなれなかったのです。
父母になれない限り、神様の夢は成就しません。真のお母様は、神様の夢を成就する日を本年四月十三日と定め、神様を父母として地上に安着させてさしあげ、選民祝福家庭と連結されるように投入してこられました。
天の摂理は、どの視点から見るかによって見え方が大きく変化します。真のお母様の自叙伝の序文にこのように記されています。
「人間始祖の堕落によってこのような天の父母様の創造理想実現は延長され、『天の父母』の立場ではなく、神様の男性格である『天の父』の立場を中心とした、男性中心の歴史が展開されたのです。西洋文明の根幹を形づくったヘレニズムとヘブライズムも、みな総じて男性を中心とした歴史を綴ってきました。したがって、神様の女性格である『天の母』の立場は隠され、神様は『天の父母様』になることができなかったのです」(『人類の涙をぬぐう平和の母』4ページ)
天の母は隠され続け、歴史は男性を中心に動かされてきました。真のお母様は、〝母が出てこなかったことが問題だ〟〝母を中心に平和をつくっていかなければならない時代が来た〟と語られたことがあります。自叙伝にも、「天の摂理の最後の時、神様は女性である『母』を中心として摂理を展開していらっしゃいます」(同6ページ)と書かれています。
六千年を経て、神様は初めて天の父母として地上に降り立たれました。それは人類歴史が新たに切り開かれた瞬間でもあります。そこに込められた真のお母様の心情を、私たちはしっかりと受け止めなければなりません。

人類の真の父母を中心に
歴史を見詰め直す

皆さんは、「韓民族選民大叙事詩」を学びましたか? さまざまな史実を有する韓民族の歴史の先端で、独り娘と再臨主は人類の真の父母として立たれました。その一点、すなわち復帰摂理歴史のゴールから民族史に光を当て直し、浮かび上がってきた史実をつなぎ合わせて神学的ストーリーを加えたのが、韓民族選民大叙事詩と言えます。
このような捉え方を、私たちは『原理講論』ですでに学んでいます。メシヤを迎えるための歴史の同時性です。イエス様以降の西洋史に着目し、再臨主の誕生を中心として光を当て直しながら、〝ああ、神は再臨主を迎えるために、このように歴史を導いてこられたのだな〟と納得できるように神学的観点が加味されて成り立っています。
私たちは、神の「見えざる手」が働いて再臨主が来たのだと確信して受け止めています。信仰を持つ者にとっては、神様がいるのだから当然となりますが、神の存在を認めない者からすれば、歴史の同時性は、くだらない神話的産物にすぎないとなるでしょう。
「選民」は、神が選んだ民ですから、「選民史」は、神が共にある歴史ということになります。母の国として立てられた日本には、選ばれる国としての民族の歴史があるはずです。
その観点で日本史をひもとけば、神様の足跡が見えてくるに違いありません。母の国にふさわしい性格、精神、民族性などが養われてきたと理解することができるでしょう。日本人の特徴でもある「和」の精神もその一つかもしれません。

あってはならないことをも含め
一つの枠組みとして摂理する

史実を神の摂理という観点から理解する姿勢は、『原理講論』の記述を読み解く際にも求められます。
例えば、ヤコブのハラン苦役二十一年。これは象徴路程に含まれます。イエス路程が霊的路程で、再臨主の路程は実体路程です。皆さんはハラン苦役を、それがいかにも、イエス様の教訓として必要なので負わせたと理解しているのではないでしょうか。
しかし、それは本来、あってはならないことでした。
ヤコブは母リベカの知恵を借りて、兄エサウから長子権を奪いました。これを「母子協助」と呼んでいます。実は、キリスト教会の中には、リベカへの評価が悪いところもあります。次男に悪知恵を授けて長男から長子権をだまし取らせたと考えるからです。
皆さんの中に、〝神の摂理のためなら、うそをついてもよいのだろうか?〟と、一度でも疑問を抱いた方はいませんか。真のお父様は、絶対にうそはだめだとおっしゃいました。
ヤコブがエサウから長子権を復帰するための第一次摂理は、愛による自然屈伏です。家庭生活の中でエサウがヤコブの素晴らしさを認め、長子権つまり家督を、弟に譲ったほうがよいと考え、喜んで相続させるはずでした。
しかし、第一次摂理は失敗し、うそをつかざるをえない状況になりました。もちろん、「うそをつけ」と天の啓示があったのではありません。リベカが〝うそをついてでも……〟と思ったのは、ヤコブが神の祝福を受けると啓示があったからでしょう。神様が誘導したのではありませんが、結果として、うそをついて長子権を奪う行為を、神様は摂理として組み込まざるをえなくなりました。
こうして第二次摂理は始まり、失敗の「蕩減」として二十一年の苦役がありました。『原理講論』で、それが本流の摂理のように見えるかもしれませんが、本質を見失ってはいけません。
モーセの荒野路程にも同じことが言えます。真のお父様は、モーセが苦難の道を行かなければならなかった理由をはっきりと説明されています。それは、モーセが同胞であるイスラエルの民を思う義憤からエジプト人を殺してしまったからでした。
たとえエジプト人に対して怒りが湧いたとしても、モーセは耐えなければなりませんでした。モーセがエジプトで王になることが、本来の天の摂理だったからです。王としてエジプトに神の国をつくるのが第一次摂理でした。
しかし、失敗したために蕩減が生じ、荒野路程に向かわざるをえなかったのです。神様は、エジプト人の殺害という行為をも含め、一つの枠組みとして摂理していかれました。
このような摂理観から見たとき、本来あってはならなかった真のお父様の聖和と、その後に急展開した真のお母様を中心とした摂理が、一つの枠組みとして理解できるようになります。
ある食口が、「真のお父様がダンベリー刑務所に入られたのは摂理だった。だからこそ、米国のキリスト教会が動き、七千人の牧師が韓国を訪れて真の父母様のみ跡を巡礼した。そのときにつながった牧師の中から、今もなお、私たちの運動の先頭に立って支えてくれる方が現れた」と言いました。
その見解は、断じて違うでしょう。ダンベリー刑務所への収監は絶対にあってはなりませんでした。真のお父様は、弟子の不信や失敗を蕩減するために入監せざるをえなかったのです。神様はそれを含めて、一つの枠組みとして、摂理を展開していかれました。

摂理に欠かせないアベルの信仰

話を元に戻します。安倍元首相の銃撃事件が歴史の一コマに終わるのか、あるいは、天的視点からその意味を洞察し、歴史の教訓としていくのか、一人一人が考える必要があります。
天的歴史を一つの枠組みとするには、条件があります。それは、アベルの立場に立つ者が責任を果たすことです。ヤコブはハラン苦役で信仰を立てて勝利し、モーセは荒野路程で試練を乗り越えて神への絶対信仰を示しました。
モーセはカナンに向かう途中、紅海に行く手を遮られました。しかも、パロの大軍勢が押し寄せてきます。モーセは神に祈ったでしょう。「神よ、パロの軍勢が迫ってきます。どうしたらよいでしょうか?」。すると神は、「あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい」(出エ一四・16)とお答えになりました。
私がモーセなら、「神様、冗談を言っている場合ではありません」と反発したでしょう。しかし、モーセは神の声に従い、イスラエル民族は無事に紅海を渡ることができました。我々常人には、このような絶対信仰を貫くことは簡単ではありません。
ダンベリーも同じです。真のお父様の絶対信仰のゆえに、それが予定された摂理のように見えるだけです。
一つの事件、出来事が、未来永劫、天の歴史として残るには、一つの枠組みに組み込まれるしかありません。そこに絶対に必要なのが、アベルの信仰です。では、アベルの立場に立つ私たちが、どのような責任を果たしていけばよいのでしょうか?
銃撃事件以降、激しい嵐のようなメディア報道や、国家次元の迫害とも言える解散命令請求があり、信徒たちの被害は拡大しました。教団も多くの被害を受けています。さらに、宗教に対する不信、誤解、違和感のようなものが日本を覆ってしまいました。
日本の民主主義は根幹から崩れ始めています。私たちは改めて、天の摂理から物事を見詰め、何を正しく受け止めていくべきか、問うていかなければなりません。
先ほど、真のお母様が米国の食口や韓国在住の日本人婦人に語られたみ言を紹介しました。実は、このみ言はずっと日本語に翻訳されていなかったのです。周藤健先生(43家庭)は、み言の存在を知って、私に連絡を下さいました。私がご自宅を訪ねると、周藤先生は、「田中君、私は悔い改めなければならない。そして、あなたは日本の会長だ。歴代の会長を代表して一緒に悔い改めてほしい」と訴え、真のお母様に手紙を書くので届けてほしいと願われました。
周藤先生は、「真のお父様は、祝福家庭が神氏族メシヤを勝利できなかったから聖和された。私は神氏族メシヤの教育をする責任が与えられていたのに、正しく教育できず、神氏族メシヤの勝利基台を地上につくることができなかった」とおっしゃいました。
周藤先生は責任感の強い方です。とても心を痛めていらっしゃいました。最終的に、真のお母様にお伝えする悔い改めの言葉を録音し、それを文章にして手紙にしました。そして、私も会長としてお詫びの手紙を書き、二人の手紙をお母様にお届けしたのです。
皆さんも『世界家庭』二〇二一年十一月号、十二月号で、紹介した二つのみ言を読み返してみてください。私たちに何が足りなかったのかがはっきり記されています。一言で言うと、〝真の父母と一つにならなかった〟ということです。真のお父様は、一つになっていると信じ切っていらっしゃいました。真の父母と一つになれば、神氏族メシヤは勝利できたのです。
真のお母様は一貫して、「私と一つになりなさい。必ず勝利できる」と訴えられました。裏を返せば、お母様には、一つになっていないと見えているということです。私たちは一生懸命に祈り、精誠を尽くして努力していますが、まだ足りないのです。本当の意味で、父母の願いに沿って生きることができていないということです。
皆さんも自らの信仰路程を振り返り、アルバムをめくるように真の父母様とのさまざまな出会いを思い返すことがあるでしょう。しかし、真のお母様が見詰めておられるのは「今」なのです。「今、私と本当に一つになっているの?」と問いかけていらっしゃるのです。
選民祝福家庭の責任として真のお母様が口にされるのは一つ。天寶勝利。つまり、神氏族メシヤの勝利です。これが果たせないままに、真のお父様の聖和があったのです。それをどこまで自覚できるかが問われています。

教育の成果を最終的に
実らせる所は家庭

先日、ある二世リーダーが、「イスラエル民族が荒野路程を経てカナンに入ったとき、一世たちが共にいなかったので、二世たちはカナンで滅びてしまった。一世と二世は一緒に行くべきだった。私はそのことを今の時代にもつくづく感じる。私は、カナンの地、天一国には絶対に一世と一緒に行くと決意している」と語っていました。
私は本当にうれしく思いました。真のお母様は常に三代圏が一つになって摂理を進めるように訴えておられます。そこには、一世が二世を育てるのはもちろん、二世が一世を荒野に置いていってはいけないという願いが込められています。たとえ、天が「だめだ」と言っても、子供たちが、「いいえ、親と絶対に一緒に行きます」と訴えれば、神様は折れるしかないでしょう。
今、街頭で信仰の自由を訴える二世たちがいます。家庭連合への迫害が続く中、本気で一世たちと共にレッテルを背負う覚悟をしています。
真のお母様と一つになった二世たちは本当に強いです。彼らのパワーに負けず、私たち一世は、本気でこの時代を切り開く責任を果たしていかなければなりません。お母様は何度も、「一世ができなかったら二世がやるんだよ。二世ができなかったら三世が……」とおっしゃっています。
私たちの教育の成果を最終的に実らせる所は、教会ではなく家庭です。創造原理の花咲く基地は家庭です。神様の夢は私たちの家庭で成就するということを強く自覚しなければなりません。
神様は父母です。父母が着地する場所は子女がいる所しかありません。父母を父母と思う子女がいるから父母でいられるのであって、子女がいない所に父母という概念は成り立ちません。私たちが二十四時間、神様を父母として迎え入れる決意をしない限り、生活は変わらないし、信仰も深まらないでしょう。
本日は、安倍元首相の銃撃事件に対する我々の視点についてお話ししました。神様を中心とした摂理を理解するポイントを共有し、私たちの責任について改めて考える時間となったことに感謝します。

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