真の神の子女としての自覚

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十一月十五日、東京・渋谷の松濤本部で、第六十四回「真の子女の日」と第三十六回「天宙統一国開天日」を記念する敬礼式が行われました。主礼を務めた田中富広会長は、記念説教の中で、「真の子女の日」の意義と私たちに願われる姿勢について説明し、「我々が『真の子女の日』を祝うにふさわしい実体になれるよう頑張ってまいりましょう」と呼びかけました。(文責・編集部)

真の父母様の勝利圏を
どのくらい自覚できているか

おはようございます。第六十四回「真の子女の日」、第三十六回「天宙統一国開天日」、おめでとうございます。
名節は、真の父母様が天の摂理を勝利し、打ち立ててこられた業績を、私たちが改めて確認し、その意義をかみしめる貴い日です。きょうは特に、「真の子女の日」の意義と、私たちに願われる姿勢について考えてみたいと思います。
人間始祖アダムとエバの堕落により、天の父母様(神様)と人間との親子関係は断絶し、天の父母様が思い描かれていた理想は破壊されました。そして、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統でつづられる悲劇の歴史がもたらされたのです。
私たちは、復帰摂理が、天の父母様と人間の本然の親子関係を回復し、天の父母様の理想を実現し、真の愛、真の生命、真の血統を取り戻すための闘いであると学んできました。
復帰摂理の核心は、真の父母様です。一九六〇年天暦三月十六日(陽暦4月11日)に真の父母様が聖婚され、人類の真の父母が立たれました。それは、天の摂理から見て、どれほど偉大なことだったでしょうか。真の父母様のご聖婚日は、人類が事あるごとに確認し、永遠に歴史に記憶されるべき貴い一日です。
真の父母様を通して、天の父母様と人間との親子関係が回復するようになり、天の父母様の理想実現に向けた道が明らかにされました。そして、本然の愛と生命と血統を取り戻すことができたのです。問題は、私たち自身が、この勝利圏をどのくらい自覚できているかだと思います。
真のお母様の自叙伝に、このように書かれています。
「人間の願いは、その真の家庭において、真の父母に出会うことです。人間は、真の父母の愛によって完成するのです。真の人間としてこの世を生き、永遠の生を生きるためには、真の父母に出会わなければなりません。たとえ死の道を行くとしても出会うべきなのが、真の父母です」(『人類の涙をぬぐう平和の母』323ページ)
私は、日本家庭連合の会長に就任して以来、真のお母様に直接、お目にかかる機会が増えました。お会いするたびに、このみ言がよみがえってきます。「目の前にいらっしゃるこの方が、自らの死をかけてでも出会うべき方なのか……」「この方と共に行く道にいかなる困難があったとしても、私は甘受していけるだろうか……」と自らに深く問いかけているのです。
同時に、真のお母様と私との関係に水を差そうとする存在との闘いがあります。自分自身の中から湧き上がる人間的な思いや自己中心の思い。自らの経験値や信仰観、浅はかな知見を基にして行う、お母様のみ言に対する自己判断。周囲から耳に入ってくる、お母様への批判の声。真の父母様に長く侍ってきた、尊敬する先輩家庭がお母様に背を向けて去っていくという事実……。それらによる葛藤を乗り越え、お母様との関係をしっかり見詰めていかなければなりません。皆さんもひょっとすると、同じような葛藤を抱えているのかもしれません。

相続権をはじめ、権利はルールに
基づいて与えられる

「真の子女の日」とは何なのか、改めて考えてみましょう。
「家庭教会手帳」ではこの日について、「『子女の日』は、勝利した真の父母が立たれ、堕落人間がそのお方から祝福を受けて再び生まれることのできる基準が世界的、天宙的に立った日です。すなわち、人類がサタンの血統圏から神の血統圏に転換され、神の子としての入籍を許される手続きが行えるようになった記念すべき日」と説明されています。
愛と血統圏には相続権、同居権、同位権、同参権が伴います。この神の血統圏に入るために、私たちに賦与された大きな恩恵が、真の父母様による祝福です。
世に言う相続権は、遺産相続のトラブルなどに関連してテレビ番組でもよく取り扱われることがらなので、なじみがあるでしょう。それは世の中のルール、つまり法律に従って与えられるものです。
文科省から家庭連合に対する解散命令請求が裁判所に提出され、国会では財産保全措置の必要性が議論されています。新法、いわゆる「被害者救済法」の制定によって、献金をした本人以外、例えば親族なども献金の返還請求ができるようになったことも影響しているのでしょう。献金の返還ということにも、相続権の有無は関わってきます。
一般社会において、血統(血縁)と相続権をつないでいるのは、国によって定められたルールです。私たちはこのルールに従って生きています。
私の姓は、もともと冨田です。祝福を受けて入籍するまでは冨田富広として過ごしていました。そして、田中家の戸籍に入った瞬間、田中家の財産を相続する権利を得たのです。そのためにしたことは書類への押印だけです。「それだけ?」と思う方がいるかもしれませんが、これもルールに従った正当な手続きです。
私の人格の大半は、生まれ育った冨田家で培われました。冨田家は北海道、田中家は福井県にありますから、両家の風習や伝統は異なります。入籍して田中家の人間になったといっても、人格がさっと変わるわけではありません。さまざまな面で、「なじんでいないなあ」と感じながら過ごしてきました。そのような私に対しても、ルールに基づいて相続権は与えられるのです。

祝福を受けることで、
神の子の位置に立てられる

一九六〇年に真の父母が立たれてから、人類がサタンの血統から神の血統に返る道が開かれました。私たちは、祝福という天の定めたルールにのっとって、サタンの血統圏から神の血統圏へと転換され、天の相続権を有する立場になったのです。では、私たちはその価値をどれほど自覚し、プライドや信念を持って生きているでしょうか?
私は、田中家に見合った人格でなかったかもしれませんが、この家の子になりました。同様に、神の子としてふさわしくない、その風格が備わっていない、品格がない、そのような者でも神の子になりうるのです。神の子と呼ぶには、あまりにかけ離れていたとしても、祝福を受けた者は神の子なのです。皆さんは、この驚くべき事実をどのように受け止めていますか? 改めて自覚しておくべきことだと思います。
一世たちは祝福を受けることで、原罪のない位置に立てられました。もし、私たちが祝福を授かるときに、「どこからどう見ても神の子だよね」と言われるような存在になっていたら、復帰摂理はもっと早く進んだことでしょう。「人類の真の父母に従う者といえば、ああいう人たちだよね」と称賛されるような、世に光を放つ群れになっていたら、今のような事態にはなっていないと思います。
最近はほとんどありませんが、ひところは、街宣車が連日、松濤本部の前に停車し、「日本から出ていけ!」などと大音量で罵声を浴びせていました。もし、私たちが神の子にふさわしい姿であり、それを伝えられていれば、逆に多くの人が、「頼むから神の子に会わせてくれ!」と懇願してきたに違いないのです。神の子を見たくて、人々が我先にと松濤本部の前に列を成す。それは、空港で韓流スターを待ち構えるファンの群れのようだろうと思います。
残念ながら、私たち一人一人の内実は神の子からはあまりにも遠い実体です。私は、ある二世とこのようなやり取りをしたことがあります。
「うちのお父さんとお母さんは神の子ですか?」「そうだね。祝福を受けて原罪が清算されているから神の子の位置に立っているよ」「えーっ。ありえない。あの成和部長もそうなんですか?」「そうだよ」「うそでしょ!」
二世は率直ですね。神の子の位置に立っているということと、神の子としてふさわしい実体を持っているということの間には、確かに大きな差があります。この事実から目を背けず、天のみ意にかなう存在になろうと、日々努力していかなければなりません。

何よりも、人間をわが子として
抱くことを優先された天の父母様

天の父母様と真の父母様は、神の子としての内実を伴っていない私たちを神の子の位置に立てることを最優先されました。どうしてそのようにされたのでしょうか? 神の子としてふさわしい者だけを選別して祝福したほうが、天のみ旨がもっと進むように思いませんか?
神の子の位置に立てることを優先したのは、言うまでもなく「親」だからです。たとえ内実が伴わなくても、どんなに不足な者であっても、真の父母様の勝利圏によって、今、自分の子にすることができるという道が開かれた以上、天の父母様には、わが子にするという選択しかなかったのです。それほどまでに人類を自らの懐に抱きたい天の父母様でした。
私たちは、人類が祝福を授かるに至ったその背景を改めて自覚しなければなりません。そして未来永劫、神の子としてふさわしい実体になれるように努力し続けるのです。
真のお父様は、次のように語られています。
「皆様は、皆様の肉身の父母に所属した息子、娘ではなく、まず神様の息子、娘であることを闡明して立ち上がらなければなりません。たとえ、今はまだ、皆様自身が神様の息子、娘と叫ぶには不足な点があったとしても、真の父母から祝福され、真の父母の息子、娘になったという条件的基準だけでも、自信をもって進んでいかなければなりません」(『平和経』1128ページ)
真の父母様は、私たちに不足な点があることを全てご存じのうえで、子女として迎えてくださいました。「子女の日」とは、真の父母様の一方的な愛と恩賜により、人類が祝福を受けて神の子の位置に立つことが許された歴史的大転換の日です。これが、血統的な視点からの理解となります。
きょうは、「真の子女の日」をお祝いしています。「子女の日」に「真の」という修飾語が付くようになったのは一九九四年です。真の父母様を中心とした四十年の蕩減路程を終え、いよいよ子女が責任を果たす「真の時代」がスタートしたことによります。「真の」という言葉は、一方的に恩賜を受けていた時代から、子女が責任分担を果たす真の時代に突入したことによって得た称号なのです。したがって、「真の子女の日」がどのような日になるかは、子女によって決まると言えます。
今はどんな時代でしょうか? 子女が自らの責任分担を明確にして実践し、真の子女としてふさわしい姿を天の前にお見せしていく時です。一方的に恩賜を受ける立場に依存せず、天に美を返せる者に本気でなっていきましょう。

「真のお母様は私のオンマです」
と心から言える心情を復帰する

最近、真のお母様はご自身のことを「ワンオンマ(〝大お母さん〟の意)」と表現されます。ワンオンマの「ワン」は、「大きい」「一つ上の代の」を意味する接頭語です。二〇二三年十月十九日にお会いしたときも、お母様は私に向かって、「私は、ワンオンマだよ」とおっしゃいました。
「真の母」という言葉には、少し距離があるというか、かしこまった雰囲気があるでしょう。それに対して、「オンマ」という言葉は、子供が母親に対して使う言葉であり、無条件に母親を慕って発せられるものです。そこには壁も隙間もないでしょう。私たちが真のお母様に対して心情的な隔たりを持たずに、自然と「オンマ」と語りかけることが理想だと思いますが、まだ心情復帰の途上であるので、お母様が自ら「私はワンオンマだよ」と言いながら、私たちに近づいてきてくださっているのです。
真のお母様との関係において、心情的な距離があると感じている人は多いのではないでしょうか。私たちは、お母様のことを「私のオンマだ!」と思える心情を全力で復帰しなければなりません。
真のお父様は、真のお母様との関係で四大心情圏を復帰しなければならなかったと語られました。父の心情、夫の心情、兄の心情、息子の心情を、お母様を通して復帰していかれたのです。お父様とお母様は年齢が二十三歳離れていらっしゃいます。ですから、父や夫、兄の心情はすぐに復帰することができても、息子の心情はなかなか復帰できなかったといいます。お父様は、お母様が自分の母親であるという心情を復帰するために、毎晩、寝ているお母様の横に座り、「オンマ」と呼びかけたのだと証しされました。
真のお父様でさえも、真のお母様を通して心情を復帰する努力をされたのですから、私たちはなおさらでしょう。今、地上にお母様がいらっしゃるという恩恵に深く感謝し、お母様との関係において、壁のない、みじんの隙もない心情世界を復帰していきましょう。私たちにとってお母様は、原理的な意味での「真の母」にとどまるのではなく、心情的に強く結びついた「オンマ」なのです。その感覚をしっかりつかんでいきましょう。

神の子として道を切り開く
ことができる者になる

そのような心情世界を強烈に味わったのが、「神日本二世圏総会」(2023年9月17日、韓国・清平)に日本から参加した六千人以上の二世・三世たちです。彼らのことに言及される真のお母様のごようすを見ていて、「お母様は、オンマに向けて放たれる息子や娘たちの波動を受け止めながら、本当に高揚されたのだなあ」と感じました。目の前のお母様が、正に「興奮冷めやらぬ」という言葉がふさわしいお姿だったからです。
真のお母様は、そのような感覚を全ての祝福家庭、食口たちとの関係の中でも持ちたいと願っていらっしゃるのだと思います。私たちはいつまでも、位置だけは与えられたという〝自称・神の子〟のままではいけないでしょう。真の神の子としてふさわしい心情を地上生活で絶対に復帰しなければなりません。そう考えると、今、お母様がご存命であることは、どれほど感謝であるのかと思わざるをえません。
実は、真のお母様は私の目の前で何度もため息をついていらっしゃいました。紛争や環境問題など世界中で起きているさまざまな問題に心を痛め、苦悩を吐露するようにして「はぁー」と息を吐かれるのです。
私のことを、心境をあらわにしても大丈夫な相手だと、真のお母様に感じていただけたのはうれしいことでした。しかし、吐露された内容に丸ごと責任を持つのは、簡単なことではありません。重荷も感じます。それでも、お母様の願いと心情、事情を共有し、子女として、道を切り開いていくことのできる者になりたいと切に思うのです。

私たち個人、家庭、教会の実体が
真の父母様を証しする

「愛を語る時代」から「愛を見せる時代」に突入しました。実体で勝負する時代の到来です。これまで以上に、私たち個人、家庭、教会の実体が問われていきます。
解散命令請求。これに関して、すでに裁判闘争に入っています。勝敗を決する最大のポイントは何でしょうか? それは、家庭連合が宗教団体であると証明することです。「えっ、どういうこと?」と驚く方がいるかもしれません。
文科省は、裁判所に提出した訴状の中で、「家庭連合は宗教団体ではなく、金集めのための受け皿団体であるため、宗教法人として法人格が与えられる団体にはふさわしくない」と主張しています。多くの元信者に対する聞き取り調査の結果や過去の民事裁判の判決など、あらゆるものを駆使しながら、「家庭連合は宗教団体ではない」と証明しようとしているのです。
私たちは、その訴えを覆すための闘いをスタートしました。家庭連合は宗教法人の資格を有するのに適切な団体であると、これまでの伝道活動の記録を基に証明していきます。
献金は、崇高なる宗教行為です。訴えの中に出てくる元信者たちも、献金をした当時は教会で熱心に活動し、喜んで信仰生活をしていました。彼らがかつて、どのような思いを抱いて歩んでいたのか。どのような環境で信仰生活を送っていたのか。それらを詳しく把握するために、彼らのことをよく知っている方々を一人一人訪ね、聞き取り調査を実施しています。その結果は、家庭連合が正に宗教であり、価値ある公益法人であると証明することでしょう。
私たちは誇りを持って、真の父母様を人類のメシヤとして仰ぎ、頂いたみ言を日々の暮らしの中で実体化しながら信仰生活を送っています。その姿を見てもらえれば、家庭連合が宗教団体であることは明確に分かるはずです。
食口の皆さんが精誠を込めて捧げた献金が何に使われたのか。それは、世界宣教に身を投じた先輩方の功績や、真のお母様の願いを受けて世界に旅立っていった天一国青年宣教師たちの歩みを知れば、理解することができます。神のみ意を形にしようとした宗教的動機。それによって出発した世界宣教が、どれだけ宣教国のためになったのか、日本のためにもなったのかを、あらゆる角度から証明していきます。
闘いが一年で終わるのか、それ以上の期間を要するのかは分かりません。いずれにしても、裁判で、家庭連合はこの国に必要な宗教団体であることを誇りを持って示していきます。
食口の皆さんには、裁判で何が争われているのか見えづらいかもしれません。また、裁判に直接関わるということもないと思います。しかし、天の父母様と真の父母様の導きのもと、一人の宗教家として誠実に歩み、み言に基づいて日々の生活を営み、幸せな家庭、幸せな地域社会をつくっていくことができます。私は、そのような歩みが積み重ねられることで、裁判が天の保護圏に入っていくと確信します。
私たちの実体が、裁判闘争を強力に後押しするのだということを理解してください。万民に、私たちの幸せな家庭を見せられるよう努力してまいりましょう。
最後に真のお父様のみ言を紹介します。
「孝子は、百年たとうと千年たとうと、父母から離れてはいけません。『一緒にいたい!』と思わなければなりません。父母に『できるならば、千年、万年一緒にいたい!』と思わせる、そのような父母の心を引きつける子女でなければ、孝子ではありません」(『永遠に唯一なる真の父母』122ページ)
真の父母様に、「ずっとこの子と共にいたい」と思っていただけるような子女を目指し、我々が「真の子女の日」を祝うにふさわしい実体になれるよう頑張ってまいりましょう。

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