「神様は終わりの日になれば、人類の前に七年の大患難があるだろうと予告されました。この患難時期は六千年の歴史路程において、天の悲しい曲折が聖徒にぶつかる時です。人間の絆がみな壊れていき、信じられない環境にぶつかる時です。自分がどんなに良心的に正しく生きたとしても、その良心で自らの生涯を主張できない時です。み旨を抱き、考えのある者であればあるほど、眺めるあちこちに苦痛を感じる時です。そのような時が、終わりの日の七年大患難の時です。
その時は、希望が揺れる時であり、私たちが信じている信仰の中心が揺れる時であり、信じて従った指導者が揺れる時です。主義はもちろん、宗教、良心、父母の心情までもすべて揺れる時です」(『訓教經(上)』418〜419ページ)
「終わりの日」には、必ず大患難があります。
サタン主権の罪悪世界が、メシヤの降臨を転換点として、善主権の世界に転換される時代(終末)を迎えるというのが、神の復帰摂理から見た歴史観です。原理的観点から見れば、地上地獄が地上天国に変わる時代です。悪主権と善主権が交差する時です。
そうであるならば、「終わりの日」は明らかに希望の時でありながら、なぜ大患難の時になるのでしょうか? なぜ人間の絆が壊れていくのでしょうか? なぜ、み旨を抱き、考えを持っていたら、苦痛を感じるようになるのでしょうか? なぜ、希望が揺れ、信じるものが揺れるのでしょうか?
「終わりの日」は、古い歴史の終わりであり、一方で新しい歴史の始まりでもあります。
『原理講論』によれば、「新しい時代の摂理は、古い時代を完全に清算した基台の上で始まるのではなく、古い時代の終末期の環境の中で芽生えて成長するのであるから、その時代に対しては、あくまでも対立的なものとして現れる」(173ページ)のです。
それはちょうど、荒れ狂う濁流が、時間を経るに従って、泥は水底に沈み、水は上の方に澄んで、ついには泥と水とが完全に分離されるがごとしです。
「家庭連合は、なぜ、こんなに社会と衝突し、敵が多いのですかね……」と、よく問われます。
一言で返答すれば、「本気で地上天国を目指しているから」です。地上において、天の父母様(神様)の愛を中心として、四大心情、四大愛を成熟させて、永遠の喜びと幸福の世界に行くことが、創造の原則だからです。逆に言えば、地上天国ができない限り、永遠に天国はできないのです。
神様の救援摂理は、正に、地上地獄を地上天国に転換するための摂理です。神様を追い出し、エゴを中心とした、偽りの愛と生命と血統圏でつくられた、ゆがんだユートピア思想と対峙していかなければなりません。
文化、芸術、教育、哲学など、あらゆる分野に潜む、エゴを中心とした価値観に立ち向かうことになります。
人間の堕落は、「自分」を優先するところから、心情、思考、行動、関係性が崩れ始め、起こりました。まず「自分」、あるいは「個人」の価値観が主流となっている人類歴史は、他者の幸福よりはまず自分の幸福、自分の家族、自分の国家の幸福が優先されるようになってしまいました。
その視点から、いくらのぞいても、「ために生きる」価値観から生まれる考えや行動は、理解しがたいのです。
世界平和や他者の幸福実現のために人生を捧げたり、自ら高額献金をしたりする行為は、「自分」を優先する価値観からすれば、理解できないのです。
〝そんな人生を選択するはずがない!〟と考える人たちからすれば、洗脳されたとしか思えないか、そう結論づけたほうが、自分が楽なのです。古い価値観の環境の中で真逆の価値観が芽生えたとき、異端に映るのは必然です。
『原理講論』は、神が新しい時代をつくるために、善主権の中心を必ず立てることを教えています。「歴史的な転換期において、神が願うところの新しい歴史の賛同者となるためには、神が立てられた新しい歴史の中心がどこにあるかということを、探しださなければならない」(同)のです。
言うまでもなく、歴史の終末期を迎えた今、新しい歴史の中心点は、「真の父母」です。
私たちは古い価値観と対峙しながら、天正宮博物館の前庭に堂々と立つ一松亭のように、変わらない姿勢で真の父母様と一つとなっていかなければなりません。ために生きる人生ゆえの試練に立ち向かう者は、天の摂理を進める勇士であり、寶なのです。
天正宮の前庭に
堂々と立っている松の木
四季を通して変わることなく
常に青く立っているね
おまえの名前は 一松亭
ああ、愛している 一松亭
おまえは天一国の希望である
おまえを愛する兄弟たちの夢だから
永遠に輝く 天一国の誇りである
ああ、愛している 一松亭
おまえは天一国の誇りである
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