週刊ニュースレター「日本統一運動 Weekly News『VISION 2020』」の17号(10月30日号)P11~12より引用
統一教会の草創期、天のみ言に触れて、燃えるような情熱で天のみ旨に投入して、今日の教会の基盤を築いた先輩たち。彼らの青春を紹介します。
777 双 増田 勝
困難な中で神様とイエス様の導き
日本教会の初期を歩んで
日本の教会は、韓国統一教会の海外宣教師、崔奉春(日本名・西川勝)先生によって出発しました。1959 年10 月2 日に高田馬場駅近くで最初の礼拝が挙行されました。先生は、全ての場面で愛情に満ち溢れていました。私は1959 年12 月、20 歳6 ヶ月、大学2 年の時に西川先生に伝道されました。洗礼を受けて3 年目でした。
記憶に残る伝道は1960 年、大学3 年の夏休みに40 日間、松本道子さんと街頭板書講義をした事です。
伝道対象者は、原則的にクリスチャンでした。再臨は、イエス様の約束です(『新約聖書』ヨハネの黙示録22 章12 節-17 節)。イエス様が、再臨されたこと。神様の計画が成就される「時」が満ちて、成約時代の幕が開いたこと。現代の最大の福音伝道と理解し自覚していました。
とは言いながら、若かった私には、キリストの再臨を伝えるのにふさわしい知識、経験、信仰が希薄であり脆弱でした。併せて、原理の御言の学習資料は、極めて乏しかった。結果として、個人においても全体においても解決すべき問題は山積していました。 当然、教会の行き先の見通しも立たず、将来像も明確に描けていませんでした。このような困難の中にあったからだと思いますが、幾度となく神様とイエス様の導きを受けていました。その時点で果たさなければならない責任は、実行できていました。
常に賛美歌「神ともにいまして」を小さな声で口ずさんでいました。もちろん、時を経た今日でもこのような恵みは享受しています。若かったので、いろいろ大変ではありましたが、すべて新鮮であり、今日以上に天の願いに敏感に反応していたと記憶しています。
真のお父様のご来日は、1965 年1 月です。その時「この方こそイエス様の再臨」と認識、確認、感涙しての劇的邂逅を果たすまでに5年余りの年月が過ぎていました。その間、祈祷の時にはイエス様の霊的、具体的な導きを体験しています。
このような経験からも、統一教会員は「キリスト・真の父母様」に侍って、神様の摂理である地上天国を実現しなければならない責任を負っていると思います。
真のお父様のご聖和は測り難い哀しみです。 慰めと希望は、真のお父様の「全ては勝利した」という御言です。
777 双 福井智也子
「いかなる迫害も越えなさい!」
私の出会った文先生
私は、まだ小学校に入る前に人間は誰しも死」を迎えること、それは永遠の別れであると知って母と別れるときが来るのではないかということが最大の不安と悩みとなりました。
以来、無常観を感じながら法華経に慣れ親しみ過ごしてきました。
その中で霊通するおばあさんから私の前世は尼さんであり、背後に宗教人がたくさんいると言われたことがありました。高校生の時には聖書に没頭しましたが、1966年、大学3年の終わりに原理に出合いました。幼い頃からの人生の悩みが一遍に解決された嬉しさは天にも昇る気持ちでした。死がすべてを分かつのではなくそれは永遠の人生の出発であるのですから、地上生活の意味が明確になったのです。
原理に触れて、当然のように献身するのですが、その頃の我が家の経済事情は極貧状態でしたので、学生の私でも自分の学費くらいは働くというのが当然の状況でした。しかし学業ももはや色褪せ、一途に走りたいのです。当然家族の驚きと反対は強烈でした。
ちょうど1967年お父様ご来日の時に合わせるかのように「反対父母の会」が立ち上げられ、何と私の父がその副会長になりました。当時、名古屋で歩んでおりましたが急遽本部に呼び出され、お父様より父親を説得して来なさい、と言われ家に行きました。しかし、それでも父とは決裂の状態でした。お父様は私の報告を聞いて下さり「そうか、これからは闘いなさい」とのお話でした。それは「いかなる迫害も越えなさい!」との激励のように聞こえました。
それ以後、お父様は私の存在を心に刻んでくださったのでしょうか。1970年の祝福の時にもお部屋に伺った時に「親父は元気か?」と声をかけて下さったり、1982年、2075双の祝福のお手伝いに渡米した時、イーストガーデンにスタッフを呼んで下さり、記念として一人ひとりプログラムにお父様のサインをくださいました。
私の名前は説明してもなかなか書けない人が多いのですが、お父様は私の顔を見るなり「智也子」と書いてくださったのです。
み言の深いところもわからないのに、ひたすらに神を求め、父母を慕う幼い娘を愛おしく思ってくださったのではないかと父の愛情を今も忘れることができません。また、私の背後の先祖たちも主をお迎えするのにこぞって私を押し出したのだと思えてなりません。きっとお父様は霊界の動きも合わせてご覧になっていらっしゃるのだとなぜか強く思うのです。
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