草梁駅前の下級労務者宿所に寝泊まりし釜山港第四埠頭で労働していた文先生の足跡をたどる

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調布教会ホームページが連載を続けている「Google Mapで訪ねる主の路程」では、「平和を愛する世界人として」(文鮮明自叙伝)に登場してくる文先生の歩まれたゆかりの場所を紹介しています。
文鮮明先生は、動乱の戦火の中、平壌から避難、南下し、1951年1月に釜山にたどり着きます。草梁(チョリャン)駅は、釜山に着いた最初に夜を明かした終着駅でもあり、第四埠頭で労働するときに、おばさんが売っていたあずき粥を食べたことなど、文鮮明先生にとっては思い出深い場所です。

以下、同記事から引用して紹介します。


第19回-釜山・厳徳紋氏との再会/草梁(チョリャン)駅前の下級労務者宿所/釜山港第四埠頭(1951年1月~4月)

「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、死の道を何度も越えて行かれた文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第19回は、釜山・厳徳紋氏との再会/草梁(チョリャン)駅前の下級労務者宿所/釜山港第四埠頭(1951年1月~4月)です。

〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に調べ推測したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また統一教会本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。

草梁(チョリャン)駅跡/釜山港第四埠頭(釜山広域市東区草梁洞)

GoogleMapで見た草梁(チョリャン)駅跡/釜山港第四埠頭
ここではリンクされた Google Map の情報ではなくキャプチャ画像を貼り付けてあります。

当時の京釜鉄道本線は、この南北に伸びる幹線道路に沿って走っていた。後の時代になって、
ほぼ同じ場所に釜山地下鉄1号線の草梁駅が設けられている。一方、東の位置に見えるのが
釜山港第四埠頭。すぐ下に見えるのが第三埠頭。埋め立て事業が進められているのがわかる。

現在の草梁駅跡付近 by abuzegi 1908年当時の草梁駅
(左)現在、草梁駅の跡地は三角地の広場と広い幹線道路となっている。
幹線道路の下には釜山地下鉄1号線が走る/(右)京釜鉄道が開通して
間もない1908年(明治41年)当時の草梁駅の駅舎-右側の建物

原理原本の直筆原稿 原理原本1ページ目
草梁の下級労務者宿所に寝泊まりしている頃から
文鮮明先生が書き始められた原理原本の直筆原稿

京釜鉄道の草梁(チョリャン)駅があった場所は、現在、ジョンバル将軍の銅像が立つ三角地の広場付近です。文鮮明先生が寝泊まりされた下級労務者宿所は、当時の草梁駅の西側近辺にあったと推測されますが、その場所を知るすべは今のところありません。草梁駅は1908年の京釜鉄道開通時の釜山側の終点で、その後、1910年に釜山停車場まで線路が伸びることとなります。
それから解放後の1969年、京釜鉄道本線は海側の埋め立て地を走ることとなり、草梁駅は北側に移動してきた釜山駅に統合・廃止されます。当時の京釜鉄道本線の鉄道敷地は、広い幹線道路やオフィスビル街になっています。

1910年頃の釜山・草梁(クリックで拡大表示) 1940年の釜山・草梁
▲(左)1910年頃の釜山・草梁駅
/(右)1940年頃の釜山・草梁駅
出所:1940年 海軍省水路部「釜山港付近」

1946年の釜山・草梁 1958年の釜山・草梁
▲(左)1946年頃の釜山・草梁駅
出所:Pusan 1946 – Korea City Plans – U.S. Army Map Service
/(右)1958年頃の釜山・草梁
出所:1958年 海上保安庁「釜山港朝鮮南岸」海図

戦前は釜山港は第一・第二埠頭だけでしたが、戦時中に埋め立てが進み、解放直後の1946年には第三・第四埠頭ができていたようすがよくわかります。南から北にむかって順番に第一、第二、第三、第四埠頭です。
鉄道路線は山側に残った本線と、海側に新しく引かれた貨物線が見えます。韓国動乱(朝鮮戦争)の時には、第三・第四埠頭が米軍の補給物資などフル稼働で荷揚げに使われていたことが史料から伝えられています。そのような時に文鮮明先生は草梁を根城に埠頭で労働されていたのです。
やがて、1969年以降、山側の鉄道路線は撤去され、幹線道路となり、海側に移動します。同時に草梁駅も姿を消すことになります。

文先生が一緒にすごした厳徳紋氏住まいの推定地(釜山広域市西区富民洞)

GoogleMapで見た慶尚南道道庁跡地/富民洞
ここではリンクされた Google Map の情報ではなくキャプチャ画像を貼り付けてあります。

▲文先生が一緒にすごした厳徳紋氏の住まいがあった場所は、当時の慶尚南道道庁前であり、
釜山広域市西区富民洞(プミンドン)とされている。慶尚南道道庁跡地は現在、東亜大学の
富民キャンパスになっている。厳密な場所は不明なのでマーキングはおおよその位置。なお、
文先生たちはその後南富民洞に引っ越しするなど、この時期は居場所を転々とされている。

戦前の慶尚南道道庁 第一埠頭にほど近い山から釜山市街を臨む
(左)戦前の慶尚南道道庁/(右)第一埠頭にほど近い山から釜山市街を臨む。
1953年前後に米軍が撮影。出所:Korean War Project

慶尚南道道庁があった富民洞と釜山の街
▲慶尚南道道庁があった富民洞(プミンドン)と釜山の街
出所:1940年海軍省水路部「釜山港付近」


ここでは記事の一部を割愛し、地図画像の拡大表示や、リンクされた Google Map の情報も省略しました。実際にリンクされた Google Map の情報を見たり、ここで引用した地図や画像の拡大表示をさせたり、あるいは引用した自叙伝や「生涯路程」の記述など、さらにくわしくご覧になりたい方は、次をアクセスしてください。

第19回-釜山・厳徳紋氏との再会/草梁駅前の下級労務者宿所/釜山港第四埠頭

 
 

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