正法眼蔵随聞記 第五巻十五より
また、道元禅師はこうも言われた。
人の心は必ず他人の言葉に左右される傾向にある。
大論にこんな喩がある。【愚かな人が宝石を持っているところを見て、他人が「あなたはなんと下品なんですか。自分自らの手でそんなものをもつなんて…。」といわれて、『宝石を手放すのは惜しいし、人の評判も気になるし…。やっぱり自分は人の言うように下品なのかな?』と思う。
思い悩んで世間の評判と周りの人の言うことに流されて、愚かにもその宝石をすてて結局ひとに奪われる。】
ひとはそんな心をもっている。
「ああこの言葉はいいな」と思っても、世間の評判に流されて従わないこともあるし、自分にとって悪いことだと思っても世間の評判に流されてやってしまうこともある。
悪であれ善であれ、心が外からの影響を受けるとすれば、どんなに悪い人でも善い教えに従い善人と親しくすれば自然とその心も良くなっていくものだ。悪人と常に交わっていると、最初はこんな悪い事…と思っていても、結局それに馴れて自分も悪くなってしまう。また絶対に他人にこれはあげない、と心に誓っていたとしても、ひとが執拗に乞い願えば、いやいやながらも与えることもある。逆に、「これは絶対、誰ゝにあげるんだ」と思っていても状況によっては、あげることなく終わることもある。
このように道に志す人は動機が弱くても、より善人と親しく交わり、同じことでも繰り返し見聞きすべきである。この言葉は前に聞いたことがあるからもういい、と思ったらだめだ。十分に信仰心ができた人でも 同じ言葉でも繰り返し聴くごとに心が磨かれて、ますます仏道に励むようになる。またまだ信仰心の無い人でも初めの一回二回は、わからなくても、繰り返し聴いているうちに、あたかも濃い霧の中を歩く人がその衣が湿気を吸ってわれ知らず濡れているように、善人の言葉を聞いているうちに、自然と真の道心が生じるようになる。
だから知っていたとしても、仏典を繰り返し読まなければなりません。師の言葉も繰り返し聴かなければなりません。そうすれば、ますます深い悟りを得るようになります。学道において妨げになる事に近づかず、善き友には苦しくやるせなくても、親しく近づき修行に励むべきだ。 現代訳以上
「亦云く、人の心は決定人の言葉に随うと存ず。大論に云く、喩へば愚人の手に摩尼珠をもてるが如し。人是を見て、汝下劣なり、自ら手に物をもてり、 と云を聞ておもはく、珠はおしゝ、名聞は深し、我は下劣ならんとおもふ。思ひ煩ふて、猶を只名聞にひかれ、人の言ばについて珠を捨て他人にとらしめんと思ふほどに、終に珠を失うと云云。人の心はかくのごとし。一定此の言ば我為によしと思へども、名聞にさへられてそれに順はざるもあり。亦一定我為にあしき事と思ひながらも、名聞の為なれば先づ随ふ人もあり。悪にも善にも随うときは、心は善悪につるゝなり。故にいかにもとより悪き心なりとも、善知識に随ひ良人に馴るるれば、自然に心もよくなるなり。悪人に近づけば、我心にも初は悪しと思えども、終にその人のこゝろに随ひ、馴るほどにおぼへず、やがて実に悪く成なり。亦人の心ろ決定して他に物をとらせじと思へども、他人強てこひぬれば、にくしとおもひやいながらも与ふるなり。亦決定して与へんと思へども、便宜なく時すぎぬれば、亦やむ事も有るなり。然あれば学人たとひ道心なくとも、良人に近づき善縁にあふて、同じ事をいくたびも聞見るべきなり。この言ば一度聞きたらば重て聞べからずと思うことなかれ。道心一度起こしたる人も、同じ事なれども聞くたびごとに心みがゝれて、いよいよ精進するなり。亦無道心の人も、一度二度こそつれなくとも、度度聞ぬれば霧露の中に行が如くいつぬるゝとも覚へざれども自然に衣のうるほうが如くに、良人の言ばをいくたびも聞けば、自然にはづる心も起り実の道心も起るなり。故に知りたる上にも聖教をばいくたびもみるべし。師の言ばも聞きたる上にも重ねて聞くべし。いよいよふかき心有べきなり。学道の為にさはりと成べき事をば重て是に近づくべからず。善友にはくるしくわびしくとも近づきて行道すべきなり。」
正法眼蔵随聞記(岩波書店)和辻哲郎校訂より
道元(どうげん)1200年1月19日 – 1253年9月22日は、鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。晩年に希玄という異称も用いた。同宗旨では高祖と尊称される。諡号は、仏性伝東国師、承陽大師。一般には道元禅師と呼ばれる。徒(いたずら)に見性を追い求めず、座禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。『正法眼蔵』は、和辻哲郎、ハイデッガーなど西洋哲学の研究家からも注目を集めた。wikipediaより
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