調布教会ホームページが連載を続けている「Google Mapで訪ねる主の路程」では、「平和を愛する世界人として」(文鮮明自叙伝)に登場してくる文先生の歩まれたゆかりの場所を紹介しています。
文鮮明先生は、1948年4月に平壌刑務所で1か月半収監された後、1948年5月に強制労働を課せられる興南監獄に移送されますが、このほどアップされた第16回-興徳里(フンドグニー)特別労務者収容所と興南窒素肥料工場の強制労働では、自叙伝の記述通り、興南工場の西約3~4kmの場所に収容所があったこと、そして文先生を含む千人の囚人たちが、来る日も来る日も歩いた収容所と興南窒素肥料工場との間の“道”を明らかにしています。以下、同記事から引用して紹介します。
Google Mapで訪ねる主の路程(16)-興徳里特別労務者収容所と興南窒素肥料工場の強制労働
第16回-興徳里特別労務者収容所と興南窒素肥料工場の強制労働(1948年5月~1950年10月)
「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、「七死復活八段完成」であった文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第16回は、興徳里(フンドグニー)特別労務者収容所と興南窒素肥料工場での強制労働(1948年5月~1950年10月)です。
〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に調べ推測したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また統一教会本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。
戦前の窒素肥料工場で硫安を積み出す労働者/戦前の興南窒素肥料工場全景
興南(フンナム)窒素肥料工場(現・咸鏡南道咸興市興南区域)
ここではリンクされた Google Map の情報ではなくキャプチャ画像を貼り付けてあります
WikiMapiaでマーキングされている現在の興南(フンナム)窒素肥料工場
興徳里(フンドグニー)特別労務者収容所跡(現・咸鏡南道咸興市興徳里
現在も収容所として使われている可能性が大)
ここではリンクされた Google Map の情報ではなくキャプチャ画像を貼り付けてあります
興徳里に位置する興南収容所。WikiMapiaでマーキングされており
現在も収容所の可能性が非常に大
1935年発行の日本陸軍参謀本部作成の地図。後に収容所ができる地名は興徳里。
当時の軍事秘密扱いだったこの地図でも、小さな集落だけで収容所らしい施設はまだ何もない。
地図の右端、海岸よりにあるのが興南窒素肥料工場
1953年発行の米陸軍作成地図。興南窒素肥料工場は黄色に塗られ星マークが付いている。
収容所のあった興徳里は “hungdong-ni”(フンドングニー)と書かれている。
また本宮収容所のあった本宮(ポングン)は “pon-gung” とある。
自叙伝の記述通り、興南工場の西約3~4kmの場所に 本当に収容所があった! しかも今なお現役?
文先生は平壌刑務所で1か月半収監された後、強制労働を課せられる興南監獄に移送されます。興南監獄とは、興南窒素肥料工場で強制労働させる特別労務者収容所のことであると、自叙伝には説明がされています。なお、興南窒素肥料工場は戦前、日本窒素肥料株式会社が建設した大規模工場群であり、北朝鮮主権下でもそのまま引き継がれて稼働しています。工場はとても大きく、約1km四方もあり目立つことから、GoogleMapで興南地方を見ると、すぐにわかります。
一方、収容所の場所はこれまで明らかではありませんでした。自叙伝や「生涯路程」では、収容所と興南工場との距離を約4km弱であることにふれています。また、「生涯路程」には収容所のあった地名を見出しで「興南徳里」として記述しています。(関連映像資料では“徳里特別労務者収容所”としているものが多い)
興南工場から3~4キロ圏内をGoogleMapで探してみましたが、手がかりはありません。そこで参照したのが、世界中のさまざまな人によって、地図・衛星写真上にマーキングされているWikiMapiaでした。そこには、北朝鮮に旅行したり在住したことのある人だけでなく、脱北者や軍事専門家などによって、北朝鮮の秘密施設や重要施設がマーキングされています。果たして、興南工場から西方約3~4kmの位置に、「興南収容所」がマーキングされていました。当時と比べて規模が変化している可能性はありますが、現在も収容所として残っていたことは驚きの何物でもありませんでした。
裏付けのため、マーキングされている「興南収容所」の地名を調べました。1935年発行の日本陸軍参謀本部が作成した地図では、その場所は興徳里(フンドグニー)となっています。興徳里はまた、1918年(大正7年)発行の『最新朝鮮地理』でも、興南区域にある集落名を列挙した個所にも登場します。1953年発行の米陸軍作成地図では、”hungdong-ni”(フンドングニー)と書かれています。もし地名が「興徳里」なのであれば「興徳里特別労務者収容所」と呼ぶべきかもしれません。
強制労働と強制収容所は、文先生も語っているように、そのしくみが考え出されたのはスターリン時代のソビエト連邦です。一方、歴史史料を調べていくと、戦時中の日本が1943年9月に興南に戦争の俘虜収容所を開設したことがわかっています。「興南収容所」は、1945年8月の解放後、ソビエト連邦の共産軍政下で強制労働を伴う強制収容所として改められたもの、と考えるのが順当でしょう。実は、シベリア抑留を体験した多くの日本人が、1945年後半から1946年にかけて、この「興南収容所」に入れられ、強制労働させられた事実が手記などで明らかになっています。
来る日も来る日も文先生を含む千人もの囚人たちが 歩いた4km弱の道が見えた!
文先生を含む囚人たちが毎日歩いたであろう収容所と興南工場の間の道。
咸興(ハンフン)と興南を結ぶ幹線道路になっている。
Google Earthで歩いた“道”を鳥瞰(ちょうかん)したところ。
Aが収容所で、Bが興南工場の入り口にあたる場所。
実は、興南工場のさらに先4kmの岬の先端部分に、43年後の1991年に
文先生と金日成主席が会談することになる麻田(マジョン)主席公館がある。
来る日も来る日も、文先生を含む千人もの囚人たちが手をつなぎ、朝と晩、収容所と興南工場を往復したであろう主の“道”が、見えてきました。Google Earthで眺めてみたその景色は、おそらく夏の風景ですが、冬にはいったいどんな風景になるのでしょうか。東海(日本海)から吹き付ける寒風は、どんな感じだったのでしょうか、皆さんのイメージでその“道”を歩きながら想像をめぐらせてください。
文先生は、2年4ヶ月の間、この4km弱の道のりを囚人として毎日歩かれますが、実はまだその先がありました。興南監獄に入った1948年から数えて43年後の1991年、さらにその前方4km先の岬にある麻田(マジョン)主席公館で、文先生と金日成主席が会い、そしてすべて和解されていくのです。(麻田(マジョン)主席公館の場所は後の連載で紹介します)
実際にリンクされた Google Map の情報を見たり、ここで引用した地図や画像の拡大表示をさせたり、あるいは引用した自叙伝や「生涯路程」の記述など、さらにくわしくご覧になりたい方は、次をアクセスしてください。また、「生涯路程」でふれられている「本宮特別労務者収容所」についても、ここでは割愛しましたが、元記事ではその収容所についてもふれています。
コメント
昨年大阪の図書館で北朝鮮の行政区画についての資料を見つけました。
それによるとたしか定州のあたりが自治体統廃合によるのかどうやら御父様がいらした頃と違うものになっているようです。定州が邑くらいの扱いになってたかもしれません。安州もそうだったかも。
これはまた別件です。
どこかの資料で日本の企業が昔興南で工場を持ってた。
その工場を所有していた会社が戦後日本の熊本で同じ機能持った工場を作った。
その工場からの公害がもとで熊本で水俣病かイタイイタイ病かが発生した。
みたいな内容が読み取れました。
これはどの資料だったか現時点では思い出せませんが、調べれば見つけられるかもしれません。
匿名さん、ご指摘ありがとうございました。
行政地域の変更は、北朝鮮のみならず、日本も韓国も常にありますので、把握することは大事ですね。
後半のご指摘は、チッソのことですね。文中にも書いた「日本窒素肥料株式会社」は、戦前の日本と朝鮮半島で「日窒コンツェルン」を形成していましたが、戦後「新日本窒素肥料株式会社」、後に「チッソ株式会社」となり、有名な水俣病を引き起こす企業になります。これはよく知られている話です。検索するといろいろ出てきます。