説教 『神と主の願い』

統一教会公式説教ブログに統一教会初代会長の久保木修己先生の説教がアップされていましたので紹介致します。

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久保木会長

統一教会

初代会長 久保木修己

一九六七年五月二十八日

 イエス、ベタニヤにて癩病人シモンの家に居給ふ時、ある女、石膏の壷に入りたる貴き香油を持ちて、近づき来り、食事の席に就き居給ふイエスの首に注げり。弟子たち之を見て憤ほり言ふ『何故かく濫なる費をなすか。之を多くの金に売りて、貧しき者に施すことを得たりしものを』イエス之を知りて言ひたまふ『何そこの女を悩すか、我に善き事をなせるなり。貧しき者は常に汝らと偕にをれど、我は常に偕に居らず。この女の我が體に香油を注ぎしは、わが葬りの備をなせるなり。まことに汝らに告ぐ、全世界いづこにても、この福音の宜傅へらるる處には、この女のなしし事も記念として語らるべし』。
                      ──マタイ伝第二六章六~一三節──

先生をお迎えするに際して
 先生を日本の地にお迎えせんとするこの時に、自らの良心、理性において深く、厳しく自己を見つめてみると、何ともいえない悲しい思いが、また寂しい苦しい思いが急激に襲ってくるのであります。一方それとは逆に、良い点においては、かつて味わったことのない素晴らしい現象として、素晴らしい内的な思いが我々の中に起こってきます。
 天の父においては、完全性をもった清きものでなければ、相対基準を合わせることができないということを考えた時、堕落から始まった人類の少なくとも六〇〇〇年の願いが、天の父の完全性と清きにあずかるこの一点に集結しているのは間違いありません。それは我々が先生を愛し、従い一体化することによって、六十年、七十年の短い人生の中で、六〇〇〇年の歴史におけるそれぞれの次元においての蕩減を解決する恩恵に浴するのです。さもない限り、我々の堕落性の中心的問題を解決することはできないのであって、そういう栄光の一瞬を迎える時間性の意味を自覚した者たちが、努力をもってより早く器を清め、より深く大きく広げていかなければならないわけであります。

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つづきは統一教会公式説教ブログをご覧下さい。

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