調布教会ホームページが連載を続けている「Google Mapで訪ねる主の路程」では、「平和を愛する世界人として」(文鮮明自叙伝)に登場してくる文先生の歩まれたゆかりの場所を紹介しています。
これまで掲載されていた第2回-五山学校と定州普通学校記事が更新・追加されました。大きな追加点は、文鮮明先生が定州公立普通学校にちょうど在学していた時期の「定州」地図が出てきたことです。
以下、同記事から引用して紹介します。
Google Mapで訪ねる主の路程(2)-五山学校と定州普通学校
第2回-五山学校と定州普通学校
14歳(1934年)~15歳(1935年)~18歳(1938年)
「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、「七死復活八段完成」であった文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第2回は、五山学校と定州普通学校です。
〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に調べ研究・推論したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また統一教会本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。
五山学校 1934年~1935年3月
当時の五山学校と五山学校創設者 李昇薫(イ・スンフン)(1864~1930)
五山学校の跡地(現在の用途不明)
※ここではリンクされた Google Map の情報ではなくキャプチャ画像を貼り付けてあります。
▲『朝鮮諸学校一覧』(1939年発行)に掲載されている五山小学校。平安北道に
計3つの私立小学校があったことが見て取れる。当時の五山小学校は6年制で学
級数は6。ちなみに3校とも教員はすべて韓国人の統計記録が残っている。
▲(左)当時の定州公立普通学校全校生/(右)文先生の生涯を紹介するビデオで使われている
この映像は、定州公立普通学校ではなく、北朝鮮になってから建てられたすぐ近くの学校
定州公立普通学校の跡地
▲下の1936年当時の地図から割り出した定州普通学校があったと推定される位置を
GoogleMap上にプロット。北側のすぐ後ろに高校と思われる大きな学校が現在建っている。
※ここではリンクされた Google Map の情報ではなくキャプチャ画像を貼り付けてあります。
文先生が定州普通学校に在学していた時期の「定州」地図が出てきた
▲1936年 陸軍参謀本部 陸地測量部発行の「定州」地図。
文鮮明先生の定州普通学校で学んだ期間は1935年4月~1938年3月25日ですから、1936年といえば、まさに文先生が在学中であった時期の地図です。定州普通学校は、定州の町中でも大きなエリアを占めていることがわかります。この地図は2万5千分の1のもので、70年以上も前のものですが、戦前の朝鮮半島を統治していた日本にとって、当時、最高の軍事機密扱いでした。地図は国立国会図書館所蔵で誰でも閲覧可能です。こうした貴重な史料類が、まだまだ日本の随所に眠っていることでしょう。
なお、文鮮明先生の生家は、定州の町から東の方向約8kmの位置にあります。この地図上にはありません。
▲『朝鮮総督府及所属官署職員録』(1935年発行)掲載の定州普通学校教員名簿(左)
/同(1937年8月発行)掲載の定州普通学校教員名簿(右)
文鮮明先生が定州普通学校で学んでいた期間の教員名簿。当時はそれぞれ「内地人」「鮮人」と呼ばれていた日本人教員と韓国人教員が混在しています。ただし統治が前提ですから、校長は常に日本人です。これらの先生のうち、少年だった文鮮明先生に手厳しく批判、論評された先生は誰だったのでしょう。あの世でくしゃみをしているかもしれません。
ここでは記事の一部を割愛し、地図画像の拡大表示や、リンクされた Google Map の情報も省略しました。実際にリンクされた Google Map の情報を見たり、ここで引用した地図や画像の拡大表示をさせたり、あるいは引用した自叙伝や「生涯路程」の記述など、さらにくわしくご覧になりたい方は、次をアクセスしてください。
●第2回-五山学校と定州普通学校 2013.4.25更新
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