鈴木喜久子さんより心情文化勉強会にて掲載されたものなどのコラムを寄稿していただきましたので、掲載していきます。
侍る心
『王たる者がしなければいけない、一番最初のことは、民をあわれむ心を持つことである。 空にある月は、あれこれ分別して照っているわけではない。 王もそうであるべきだ。
できのいい者、できの悪い者。 力のある者であれカのない者であれ、王であるならば、白分の民を白分の子どものようにかかえ、世話をしなければいけない。 シジョン商人(特権商人)たち、あいつらは本当に悪いやつらだ。 朝廷の重臣たちにわいろをつかって、甘くみてくれなどといって、国のす今ての利権をまきあげていった者たちだ。
そればかりじゃない。 商権を独占し、貧しい民のうらをかく悪徳きわまりない者たちだ。
しかし、その者たちもみなお前の子どもだ。 能力はあるが心底意地の悪い子どものひとりである。 そうだとしたらお前は一体どうすべきだらたのか。 子どもの悪さをムチでだけおさめようとしたのか。
その能力を伸ばす方法も考えてあげなければいけなかったのではないか。 なのにお前はどうしたか。 まちがっているといって、その能力さえ切り取ってしまわなければいけないと言った。
そう、それはお前がよくわかっていなかったから、不足だったための失策だったとしよう。 そうだとしてもお前はそのあとどうしたか。 改革もいい競争もいい。 お前のいう通り確かにそれは必要なことである。
しかしそのことのために1日飢え、2日飢えていく民のために一体何を準備したのか。 ただ宮中にとじこもって改革だ何だとさわいだだけだ。 まだまだだ。 とうてい王というには、まだまだおぼっかない。』
最近人気上昇中の『イサン(王様の名前)』という時代もののドラマの一節です。 王位につくまえのイサンがおじいさん(王様)から叱責を受けている場面です。
我家の娘たちは、目本のものが面白いといってインターネットでダウンロードをしながら『ガリレオ』とか『医龍』などという日本ドラマを時にみています。 韓国社会にどっぷり
つかっているためか、目本のものが新鮮でいいのだそうです。
私はよそ者(?)なので韓国ドラマが良く、特に時代もの目がありません。 セリフが好きで、思わずくらいついて見ているようで、家族たちにテレビをにらみつけてるとこわがられます。
前に挙げたセリフもここ最近のもので、つい書きとめてしまったものです。 それでなくても韓国の人たちは雄弁で、ことばの中に生命が流れているようにかんじられることがよくあります。 水が流れながらあいた空間をうめていくように、ことばが人の心のヒダをぬって満たしていくようだ… というか、上手に説明できないのが残念です… 。
前おきがずい分長くなりました。 実は韓国ドラマを通じて学ぶことがたくさんありまず。目本でも人気になった『長今の誓い』から習った私流でずが『侍る』世界について書いてみたいと思います。
センガクシという官女見習い時代の長今が、韓尚宮(ハンサングン:師匠)からちょっとした訓練を受けている場面があります。 『水をもってくるように』(韓国では朝水を飲む習慣のある人がいる)といいつけられ、何回か韓尚宮の部屋に水を運ぶのですが、毎回『NG』。 韓尚宮に受けつけてもらえません。
色々工夫し、最後には小さな葉っぱを一枚浮かべてみたりもしましたが、『NG』。 不合格です。 とまどう長今の顔が急にパッと明るくなります。 幼い頃、母親が白分にしてくれていたことを思い出したようすです。
韓尚宮がまた言います。
「水をもってきなさい・… 」
「もしかして下腹は痛くないですか?」
「べつに… 」
「便はされたでしょうか?」
「うん」
「その…、のどは痛くはないでしょうか?」
「もともとのどはしょっちゅう痛いほうだが… 」
「あたたかいお湯に、お塩をほんの少し入れました。いっきにぐい飲みはされないで、ゆっくりお茶のようにお飲みください。」
「わかった。ありがとう。」
合格です。
不合格の部分は、自会の基準でよかろうと思って水を運んでいた時です。 水に小さな葉っぱを浮かべて「良しや」と思ったのもやっぱり白分の基準です。
あ一、どうしようかと悩んで思いをめぐらした時、幼かった頃、朝目をさますと、下腹は痛くないか、便はしたのか、のどは痛くないのかたずねては、その日の調子に合わせて、
色々かげんをして水をのませてくれたお母さんのことを思い出したんですね。
水を飲む人の立場に立って、その人の為に水を差し出す。 王様の料理を担当するスラッカンの宮女の心構えとして、自分の考えとか技術に頼る以前に、王様の今の状態がどうであって、それに対して最善の対処をしてゆく姿勢を教えたかったのだと思います。
長今のお母さんはすごいなあと思いました。 朝、目をこすって起き上がってくる娘にたくさんの関心を示し、愛の実践していたんだなあと。 お母さんは朝起きると同時に家族に心
がいっているんですね。 夫や子どものまわりを心がぐるぐる360度でまわっていて、顔をみた瞬間その感性が色々な情報をキャッチするんでしょうね。 そして確認したりします。
「こわい夢みたの?」 「おそくまでねむれなかったの?」 等々。 長今は母親が自分にしていたことを師匠にしてみます。 あれこれ伺いをたてながら、のどがよく痛むんだという情報をキャッチすると、のどにいい水を差し出すことができました。
短くて、かんたんなシーンなんですが、侍るというのはこういうことなのかと初めて思い知った感じでした。 子どもであれ夫であれ、先生であれ… 。 ですから相手が白分にと
って対象的な立場の人であっても、主体的な立場の人であっても、とにかく、相手を主体の立場に立てて自分はぐるぐるまわるんですね。
あれやこれやと関心(感性)をもって。 そしてその相手(主体したその人に)に最高のものを与えようと実践してゆくこと。 それが『侍る』ということなんだと。 『侍る』ということは、とても柔和で、アクティブなものでした。
今年は、夫にも子どもたちにも侍る生活をしてゆきたいと思っています。 身近な人に侍れずに、神様とか真の御父母様もないかなと思えるからでず。 よく考えると私たちはお父様
に侍られているようです。 お父様は私たちに侍っていらっしゃる!
お父様のみ言はいつも同じだと私たちは時々心の中で思ったりします。 お父様が私たちに接せられる時、私たちのまわりをぐるぐる回られた結果、最高最善のものを与えて投入される時、愛のみ言しかないのだと思います。
他のことを語られたらおかしいんですね。 平和の王として投入される最高にして最善のものなんだなあと改めて思いました。
私は今つくづく反省しています。 家庭生活21年というのに、どうして夫に対しても「最高の夫にしてみせる」とか「最高に幸せな夫にしてみせる」という考えがもてなかったんだ
ろうか と。
鈴木喜久子
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